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  • せなけいこ

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  • せんだみつお

    48年、宮崎県日南市に家族とともに引き揚げ、54年に日南小学校入学。翌55年、東京都杉並区に転居。区立西田小学校、区立松渓中学、法政大学第1高校を経て66年、駒沢大学経済学部入学。翌67年、中退して服部栄養学園調理士科に入り69年、調理士の免状を取得。かたわらアマチュアのフォーク・グループの司会などをやっているときスカウトされ、ニッポン放送のディスク・ジョッキー番組『ワゴンでデート』の司会に起用される。以後、音協、労音などの司会者として全国を回り、72年に文化放送の深夜番組『セイヤング』のD・Jを担当、●ジャンジャジャ~ンの合い言葉とともに若者の身近な話題について猛烈な勢いで喋りまくって人気者となる。同年、TBSの若者向けスタジオ番組『ギンザNOW』でテレビにも進出。翌73年、日本テレビのギャグとコントを中心にした歌謡ヴァラエティ・ショー『うわさのチャンネル!!』に歌手の和田アキ子らと出演、コメディアンとしての才能を発揮する。映画は東宝「お姐ちゃんお手やわらかに」(75)に初出演。以後、東映「こちら葛飾区・亀有公園前派出所」(77)に主演し、荒唐無稽なはみだし警官をなりふりかまわず怪演した。映画はほかに松竹「青春の構図」、東映「キンキンのルンペン大将」(76)、「トラック野郎・突撃一番星」「トラック野郎・一番星北へ帰る」(78)など。テレビ・ドラマはTBS『真夜中のあいさつ』(74)、NHK『人間模様・北上山系』(77)など。レコードはキャニオン『ダメな男のロック』(73)がある。78年12月、急性肝炎で入院し、79年3月退院。73年結婚、子供なし。

  • せんだるか

  • せんのともつぐ

  • せんぼんよしこ

    53年早稲田大学文学部芸術学科卒業。同年日本テレビ入社。いわゆる開局組で日本テレビのドラマの草分け的存在。入社当時は本名の漢字でクレジット表記されていたが、誤読されやすいため三年目より平仮名にする。『ケンシ電話博士』(56)、『プラネタリウム劇場』(57)、『チョコラ劇場/雑草の歌』(58)などを手掛け、59年よりスタートした愛の劇場を長年演出し『心ごころ』『モッちゃん』(59)、『もず』『明日への命』『はさみ』(60)、『これが愚作だ』(61)、『ワンタッチラブ』(62)、『花婿』(63)などでこのシリーズの黄金時代を築き上げた。その功労として61年に日本放送作家協会第一回演出者賞を受賞。また同年には『縁』で芸術祭奨励賞、63年にはギャラクシー賞を受賞している。ほかに『細雪』(65)などがあるが、昭和40年代に入ると、今までの30分ドラマから次第に一時間ドラマへと移行し、やがて67年の『はいから鯉さん』では京マチ子が連続ドラマ初出演ということもあり、収録は連日深夜にまで及び、予算をオーバー。丁寧な作りと制作姿勢が局の方針と合わず、幼児番組の『ロンパールーム』のフロアーディレクターとしてスタジオを走り回るという苦難の時代を迎える。75年の『姉さんの秘密』以来、現場を離れる。しかし、粗製乱造ドラマからまた良質ドラマをという声が高まり、再び第一線に復帰し、80年、木曜ゴールデンドラマ『ああ!この愛なくば』で堂々の芸術祭大賞、テレビ大賞優秀個人賞を受賞。この作品で大竹しのぶを起用したことにより、以来必ず起用するというほどの惚れ込みようで、翌81年には澤田美喜の生涯を描いた『母たることは地獄のごとく』『山を走る女』、日本テレビ開局30周年記念番組となった『霧の旗』(83)、『鹿鳴館物語』『友よ』(84)、『ちょっと愛して』(85)などを意欲的に演出した。85年には日本テレビを定年退職するが、嘱託として残り、残留孤児をテーマにした『カネボウヒューマンスペシャル/赤い夕日の大地で』(87)での気迫を感じさせる演出は評判を集めた。また『明日一九四五年八月八日・長崎』(88)では長崎の原爆投下の前日に明日を信じて生きる人々の姿を描いて高い評価を得て、日本テレビ・ディレクターとして最後の作品を見事に仕上げた。

  • せーぢ

  • ぜんじろう

  • ぜんとうひろよ

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