森一生 モリカズオ

  • 出身地:愛媛県松山市
  • 生年月日:1911/01/15
  • 没年月日:1989/06/29

略歴 / Brief history

【戦後、大映時代劇の重鎮として活躍】愛媛県松山市の生まれ。父の仕事の関係で幼いころに九州の八幡に移る。八幡中学に入学するが、3年のとき愛媛県に戻り、松山高等学校を卒業、33年に京都大学文学部を卒業。同年、日活太秦撮影所に入社する。助監督部は定員オーバーで脚本部にまわされる1934年8月、製作部長の永田雅一が、伊藤大輔、溝口健二らを引き連れて退社し第一映画社を創立、松竹傘下に入る。このときに森も同行する。ここで助監督に転じ、伊藤の専属となり「建設の人々」「お六櫛」などにつく。36年9月、第一映画社は解散、師の伊藤とともに新興キネマに入る。同年「仇討膝栗毛」で監督デビュー。月田一郎、森静子主演の時代劇だが、以降、新興で、「岡野金右衛門」(37)、「宮本武蔵」(38)、「鬼あざみ」(39)、「近藤勇」(40)、「大村益次郎」(42)などの時代劇を撮り続ける。同年、大映に移籍、大阪商人のど根性を描いた「大阪商人」を撮って陸軍に応召し、中国大陸に渡る。戦後、大映に復職し「婦人警察官」(47)、「わたしの名は情婦」(49)などの現代劇を撮る。まもなく本領を発揮する時代劇に戻り、52年に黒澤明脚本の「決闘鍵屋の辻」(東宝)で、荒木又右衛門の決闘を徹底したリアリズムで描いた。57年には再び黒澤の脚本で「敵中横断三百里」を壮大なスケールで撮っている。【大映時代劇の名作を発表】59年には、市川雷蔵と勝新太郎で「薄桜記」を撮る。妻を犯された男の復讐物語で、その華麗なカメラワークと重厚な演出で描いた正統派時代劇の極致である。そして、勝新太郎の「不知火検校」(60)では二枚目スターの勝を坊主頭の悪党に仕立て上げて新境地を開かせ、代表作“座頭市”シリーズへとつなげさせたのである。以降は、大映のメイン監督として、勝の「悪名」「座頭市」「兵隊やくざ」シリーズ、雷蔵の「忍びの者」「陸軍中野学校」シリーズなど、大映の2枚看板の名物シリーズを撮り続ける。その間の67年には雷蔵で「ある殺し屋」を撮る。一見平凡な小料理屋の板前が実は凄腕の殺し屋だったという、意外性のある緊迫感たっぷりな作品である。71年、大映倒産後は活躍の場をテレビに求め、映画と同じ格調の高い時代劇を撮り続けた。戦中・戦後にわたって大映時代劇を支え、100本以上の作品を撮り、多くの秀作を残したことは特筆に価する。

森一生の関連作品 / Related Work

作品情報を見る

  • 座頭市御用旅

    制作年: 1972
    昭和三十七年「座頭市物語」以来のシリーズ二十三本目。脚本は「渡世人 命の捨て場」の直居鉄哉。監督は「皆殺しのスキャット」の森一生。撮影は「片足のエース」の森田富士郎。
    90
  • 若き日の講道館

    制作年: 1971
    古い柔術の世界から、近代的な柔道の講道館へ入学した青年柔道家の物語。脚本は松浦健郎と八尋大和。監督は「皆殺しのスキャット」の森一生。撮影は「秘録長崎おんな牢」の今井ひろしがそれぞれ担当。
  • 皆殺しのスキャット

    制作年: 1970
    脚本は「おさな妻(1970)」のコンビ安本莞二と白坂依志夫。監督は「あぶく銭」の森一生、撮影は「透明剣士」の今井ひろしがそれぞれ担当。
  • あぶく銭

    制作年: 1970
    「おんな極悪帖」の星川清司のオリジナル脚本を、「忍びの衆」の森一生が監督した遊侠篇。撮影は同作の森田富士郎が担当。
  • 忍びの衆

    制作年: 1970
    司馬遼太郎の原作「伊賀の四鬼」をテレビドラマ「悪一代」を書いた山田隆之が脚色し、「眠狂四郎円月殺法」の森一生が監督した“忍びの者”シリーズ第九作。撮影は「二代目若親分」の森田富士郎。
  • 眠狂四郎円月殺法

    制作年: 1969
    「賞金稼ぎ」の高田宏治と高橋稔が脚本を共同執筆し、「四谷怪談 お岩の亡霊」の森一生が監督したシリーズ第十三作。撮影は同作でコンビを組んだ武田千吉郎。

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