「喜劇王チャップリン」のストーリー

1889年4月16日、ロンドンで、名もない芸人夫婦に2番目の男の子が生まれた。名づけてチャールズ・チャップリン。父親は間もなく死に、一家を支えた母親も、やがて体をこわして死んでいった。チャールズと兄のシドニーは、スラム街の片隅で、母から習った踊りや、新聞売り、その外の雑用で貧しいが元気に暮らしていた。11歳のときから、チャールズはロンドンの舞台に立った。そしてコメディアンになろうと決心し、兄が所属していたフレッド・カーノ一座に加わった。仲間の1人にアーサー・ジェファーソンという男がいたが、これが後のスタン・ローレルである。1910年、一座はアメリカに巡業し、チャールズの「チャップリンの寄席見物」というパントマイムは大ヒットを記録した。そしてキーストン撮影所のマック・セネットにスカウトされ、1913年12月、今までの2倍のギャラで契約をした。映画デビューはヘンリー・レアマン監督の「成功争い」だ。批評家には好評だったが、撮影所内では、あまりかんばしくなかった。やがてチャップリンは役作りに苦心さんたんの末、後に彼のシンボルとなった放浪者となって登場した。観客は彼を歓迎したが撮影所内では不評。以後不本意な作品が続いた。こんなチャップリンをなだめるため、セネットは彼の脚本・監督・主演映画を指示した。第1回は「キャバレーご難の巻」。この作品以後の彼は一作ごとに人気を高め、彼の名を不動にしたのは「醜女の深情」である。これはセネットが作った世界で最初の長篇コメディである。1914年に始まった第1次大戦は、さらにチャップリン喜劇の名声を高めた。そしてエサニー会社に移った彼は25歳で名実ともに、世界最大のコメディアンになったのである。映画ばかりでなく、彼の歌も次々と売り出されていった。所属会社はミューティアル会社、ファースト・ナショナルと転じ宝石のような2巻物喜劇を作っていった。この中には、有名な「三つどもえ事件」がある。1917年にはダグラス・フェアバンクスと一緒に芸能部隊に参加したり、当時のアメリカの恋人メアリー・ピックフォードらと自由国債の売出しに一役買ったり、「ザ・ボンド」という映画を自主製作したりした。そして、映画産業独占の意図に抗し、自分たちの独立を確保するため、フェアバンクス、ピックフォード、D・W・グリフィス、ウィリアム・S・ハートらとユナイテッド・アーチスツ会社を設立した。彼は32歳で初めて故郷のイギリスに錦を飾った。スラム街から生まれた偉大なる天才チャールズ・チャップリン。彼の作品は、その光を失うことなく、永達の生命を持ち続けるだろう。

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