「ヴィクトリア女王」のストーリー

1838年6月廿日の深夜、ロンドンのウィンザー城から一台の馬車が滑り出した。それにはカンタベリー大会正と内大臣コニンガム卿が乗っていた。国王ウィリアム4世が急死したので、2人は王位継承の趣をケンシントン離宮に住む18歳のヴィクトリア姫に告げるため急行するのだった。当時ナポレオン戦争の硝煙未だ消えやらぬ欧州の風雲ははなはだ急であり、老練な政治家は若い女性の主君を危ぶんだが、その杞憂は間もなく消失した。生れながらに王者の天禀を具えた女王はドイツ系の生母や師伝の制肘を受けず、堂々と国事に当った。老首相メルバーンの肝入りで、ヴィクトリアはアルバート大公と結婚する。大公は数智に満ちた強い性格の青年で、2人の仲は円満であった。大公は政治に関与しなかったが学究であり熱心な社会改良家だったので、少しづつ女王を扶けて英国史上に重要な諸改革を行なった。クリミヤ戦争、チャーチスト運動、インドの一揆などの事件に直面しながら、穀物条令の廃止、選挙区の改正、幼年労働法の設置、陸軍制度確立など、内閣や議会の反対と闘いつつ実施に成功した。1861年トレント事変が起こった。米国の南北戦争に英国が巻込まれそうになった事件で、両国の世論は沸騰したが、女王とアルバートの苦心を諒とした米大統領リンカーンが自国の世論を押さえたので、事件はそれ以上拡大されずに終わった。アルバートはこの解決に精根つき、同年12月に死去した。ヴィクトリアは悲しみのあまり長い間隠遁生活を送り一切の公式会合に出席しなかったが、1896年6月12日、聖ポール大伽藍における女王即位60年記念式には久々に出席し、グラッドストーン、ディズレーリなどの政治家、文豪ディッケンス、キッチャー将軍などを謁見し、満民の歓呼を受けた。治世60年の間に、英国はインドを合しかし、世界各地に膨大な植民地を擁し、名実共に世界第一の富強国となった。その間の諸々の辛苦が、ヴィクトリアの胸裏にはあたかも昨日の出来事であるかの如く生々しく去来するのであった。

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