斎藤寅次郎 サイトウトラジロウ

  • 出身地:秋田県由利郡
  • 生年月日:1905/01/30
  • 没年月日:1982/05/01

略歴 / Brief history

【日本映画界屈指の喜劇監督】秋田県由利郡の生まれ。明治薬学校を中退して製薬会社宣伝部の活動写真巡業隊を務め、22年、松竹蒲田撮影所に入社、大久保忠素監督についた。26年「桂小五郎と幾松」で監督デビュー。桂小五郎は主役で、絶対強いはずだから死ぬわけはないのだが、あっさりと殺してしまう、というように最初からナンセンスに溢れていた。以降もひたすら他に類のないナンセンス喜劇を撮りつづけた。「熊の八ツ切事件」(32)では、山の中に逃げ込んだ鬼熊を追うために、近くにあった日露戦争当時の大砲に火薬を詰め発射するのだが、不思議なことに砲弾は力つきて川に落ち流れていく。また「この子捨てざれば」(35)では、貧乏な傘職人がわが子を捨てにいくと、先にどこかの子供が捨てられており、やむなく拾ってくる。何度もそれを繰り返して家の中は子供だらけになってしまう。そして「子宝騒動」(35)では、貧乏子沢山の夫婦の悪戦苦闘ぶりをナンセンスなギャグ満載で描いた。37年に東宝へ移籍。榎本健一、古川緑波(ロッパ)、柳家金語楼、笠置シヅ子などの喜劇人と、優れた喜劇を生んでいくようになった。中でも「エノケンの法界坊」(38)は、当時、一座で東宝に入社したばかりのエノケンの第1回作品で、インチキ坊主の法界坊が宝物の掛け軸をめぐる争いに巻き込まれる騒動を、斎藤監督は得意なギャグを豊富に取り入れ、スピーディな作品に仕上げている。また古川ロッパとは「ロッパのおとうさん」(38)、「ロッパの大久保彦左衛門」(39)、「ロッパの駄々ッ子父ちゃん」(40)、「敵は幾万ありとても」(44)、「突貫駅長」(45)などで組み、名コンビぶりをうたわれている。【大物喜劇人と喜劇をつくり続ける】戦後は東宝争議のあとの47年、新東宝に移籍する。喜劇人との映画づくりが続いたが、戦前のような破天荒なナンセンス喜劇、彼独自のギャグというよりも、どちらかというとセンチメンタルな泣き所を入れるような日本喜劇の悪い伝統が、彼の映画の中に入り込むようになる。エノケンとは「婿入豪華船」(47)、「トンチンカン三つの歌」「トンチンカン捕物帳」(52)など。金語楼とは「誰がために金はある」「唄まつり百万両」(48)、「戦後派親爺」(50)、「初恋トンコ娘」(51)、「娘十八びっくり天国」(52)、「珍説忠臣蔵」「総理大臣の恋文」(53)、「けちんぼ長者」(55)など。花菱アチャコとは「のど自慢狂時代」(49)、「ハワイ珍道中」(54)、「お父さんはお人好し」(56)、「大江戸人気男」(57)、「殴り込み女社長」(60)など。他に杉狂児、伴淳三郎とは「アジャパー天国」「かっぱ六銃士」(53)、三木のり平とは「誰よりも金を愛す」(61)などがある。

斎藤寅次郎の関連作品 / Related Work

作品情報を見る

  • 大笑い次郎長一家 三ン下二挺拳銃

    制作年: 1962
    野沢純の原作を、福田良二・朝日奈喬・七条門が脚色し、「私は嘘は申しません」の斎藤寅次郎が監督した喜劇。撮影担当は「胎動期 私たちは天使じゃない」の岡田公直。
  • 私は嘘は申しません

    制作年: 1961
    大貫正義の原作を、「「粘土のお面」より かあちゃん」の館岡謙之助と、朝日奈喬が脚色し、「誰よりも金を愛す」の斎藤寅次郎が監督した喜劇。「桃色の超特急」の須藤登が撮影した。
  • 誰よりも金を愛す

    制作年: 1961
    「サラリーマン忠臣蔵」の笠原良三の脚本を「殴り込み女社長」の斎藤寅次郎が監督した喜劇。撮影は「蛇精の淫」の平野好美。
  • 殴り込み女社長

    制作年: 1960
    岡田豊の脚本を、「社長野郎ども」の斎藤寅次郎が監督した喜劇。撮影は荒牧正が担当した。
  • 社長野郎ども

    制作年: 1960
    大貫正義・林浩一の脚本を久方ぶりに斎藤寅次郎が監督したコメディ。撮影は「金語楼の海軍大将」の友成達雄。
  • 爆笑水戸黄門漫遊記

    制作年: 1959
    「緋鯉大名」の共同執筆者・中田竜雄の脚本を、「大笑い江戸っ子祭」の斎藤寅次郎が久方ぶりに監督した喜劇。「ある日わたしは」の飯村正が撮影した。