AGANAI 地下鉄サリン事件と私の映画専門家レビュー一覧

AGANAI 地下鉄サリン事件と私

1995年に発生した地下鉄サリン事件の被害者である本作の監督が、犯行を引き起こしたオウム真理教に自ら迫るドキュメンタリー。通勤途中で被害にあったさかはらあつしは、事件から20年の時を経てAleph(オウム真理教の後続団体)の広報部長・荒木浩と対峙する。米アカデミー賞の前哨戦といわれるIDA(国際ドキュメンタリー協会)長編ドキュメンタリー賞ショートリスト選出作品。
  • フリーライター

    須永貴子

    オウム真理教(=麻原彰晃)に人生を狂わされた二人の男の異色ロードムービー。共通のルーツである丹波や、母校の京都大学などを訪ねながら、監督が荒木に様々な問いを投げかける。時間と言葉を尽くした結果、少しだけ心を開いた荒木が、入信から出家までの心の変化を語る。それは、教団がいかにして、純粋な若者を現世に絶望させるかという、洗脳の核心に触れた貴重な証言。二人の思い出話として語られる、カルトの勧誘活動に対する当時の京大のおおらかさに絶句。

  • 脚本家、プロデューサー、大阪芸術大学教授

    山田耕大

    監督のさかはらさんとインタビュイーのオーム真理教(現アレフ)の広報部長の荒木さんは奇しくも共に京大を出ていて、出身も同じ丹波だという。それがサリン事件の被害者と加害者側の人間として、この映画で対峙している。荒木さんは直接サリンを撒いたわけではないが、今は教団の顔といった存在であるから、“事件に責任を感じている”と思いきや、事件を背負いきれず、戸惑うばかりのようだった。二人の微妙な心の交流を掬い取れるか否か、見る人のあの事件への思いが左右する。

  • 映画評論家

    吉田広明

    地下鉄サリン事件の被害者である監督が、アレフ広報である荒木氏と対話を重ねる。糾弾するというより、なぜオウム=麻原であり、その信仰を維持するのか、事件にどう責任を感じているのかを知ろうとする。「出家」に拘泥して現世との絆を断ち、閉じこもろうとする荒木氏を、監督は自分の家族、荒木氏自身の家族と会わせることで外に引き出す。結局引き出せたのは一端の責任感、負い目の感情で、謝罪ではないが。観察=分析するドキュメンタリーというよりコミットするドキュメンタリー。

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