「桜田門外ノ変」のストーリー

安政7年(1860年)2月18日早暁、水戸藩士・関鉄之介(大沢たかお)は、妻・ふさ(長谷川京子)と息子の誠一郎(加藤清史郎)に別れを告げ、故郷から出奔した。同年1月、鉄之介は水戸藩の有志たちと徳川幕府の大老・井伊直弼(伊武雅刀)を討つ盟約を結び、これを実行するため江戸へと向かったのである。大老襲撃は3月3日に決まり、鉄之介を始めとする水戸脱藩士17名と、薩摩藩士・有村次左衛門(坂東巳之助)を加えた襲撃実行部隊18名が集結。そこで計画の立案者で水戸藩尊王攘夷派の指導者・金子孫二郎(柄本明)から、鉄之介は部隊の指揮を執るよう言い渡される。襲撃当日。品川愛宕山へと集結した鉄之介たちは襲撃地点である桜田門へと向かい、襲撃者の一人が大老の行列に直訴状を差し出す振りをして、行列に斬りかかる。同時に仲間が発砲した短銃の発射音を合図に、斬り合いが始まり、やがて有村が大老の駕篭へ到達、井伊の首を刎ねた。襲撃隊は稲田重蔵(田中要次)が闘死、4人が自刃、8人が自首。その成功を見届けた鉄之介は、京都へと向かう。計画では大老襲撃は序曲に過ぎず、同時に薩摩藩が挙兵をして京都を制圧、朝廷を幕府から守るはずであった。だが薩摩藩内で挙兵慎重論が持ち上がり、計画は瓦解する。幕府側からは勿論、かつての同胞・水戸藩士からも追われる立場となった鉄之介は、“桜田門外ノ変”に至る歳月を思い返していく……。安政元年(1854年)のペリー来航以来、鎖国の門戸を開こうとする井伊直弼ら徳川幕府の譜代大名たち。それに異を唱えて尊王攘夷論を押し出した水戸藩主・徳川斉昭(北大路欣也)が対立。やがて井伊が大老に就任したことから、斉昭の一派は失脚。井伊はさらに斉昭に賛同した各藩の藩士、公家を弾圧する“安政の大獄”に手を染めていく。この暴挙を食い止めるため、鉄之介たちは立ち上がったのだったが……。