略歴 / Brief history
父・石田治三郎と母・矢野保子の一人娘だが、三歳のとき両親が正式な結婚ができぬまま別れ、29年に父がブラジルへ渡って音信不通になったため、母と祖母・マツによって育てられる。しかし、いじけることなく、自分が正しいと思えば男の子とでも取っ組み合いの喧嘩をするような元気な子として育つ。30年に港区の石田小学校に入学。度々の転居で36年に吾妻小学校を卒業。踊りが好きだったことから卒業と同時に大阪松竹少女歌劇団(OSSK、42年5月に大阪松竹歌劇団=OSKと改称)予科生募集に応じ、二千人以上の受験者のなかから八十人が選ばれ、そのうちの最年少の合格者として入団した。京マチ子という芸名は、このとき母と祖母が夜どおし考えてつけてくれたものである。半年間の養成期間を経て同年、大阪劇場(大劇)での公演『ハッピー・フェロー』に土人の子供にふんして初舞台。ライン・ダンスのその他大勢にも出る端役だった。三笠静子(のちの笠置シヅ子)が売り出したころだったが、本科生、研究生、技芸員と進み、40年の『春の踊り』にはベスト・テンに選ばれ、男役のスター勝浦千浪とデュエットを踊り、娘役として売り出し、生来の負けじ魂と、ずばぬけた脚線美とで43年には幹部待遇となる。44年、松竹下加茂の井上金太郎監督の時代劇「天狗倒し」に尾上菊太郎と共演の桑野通子の妹役で映画初出演。続いて溝口健二監督「団十郎三代」44にも助演。いずれもOSKからの特別出演というかたちだった。戦後の47年、幹部に昇進。恵まれた上背と素晴らしい脚線美とを武器にレヴュー・ダンサーとして本領を発揮するようになり、戦後の解放ムードのなかでOSKの先輩・笠置シヅ子がブギウギの強烈なリズムによる歌と踊りをもって、いちやく人気スターとなって間もなく、彼女も、48年5月、浅草・国際劇場での松竹歌劇団(SKD)とOSKの合同公演『緑のカーニバル』のなかの『デッド・エンド』でブギウギのリズムに乗せた『黒ん坊の踊り』を、全身を黒くぬりつぶし、大胆かつ闊達に踊りまくって注目され、東宝・日本劇場のプロデューサー兼演出家・山本紫朗の誘いを受けて同年12月の日劇ショー『世界のクリスマス』に出演。飛鳥亮・振付の『七面鳥(ターキー)ブギ』をソロで、『サンタクロースの踊り』を清水秀男とのデュエットで踊り、魅惑的な大きな瞳の美しい容貌に日本の踊り子にはかつてないようなグラマラスな肉体、加えるに奔放でダイナミックな踊りと三拍子そろった舞台姿を見せ、圧倒的な評判をかちとった。このころすでに、彼女は大映の誘いを受けて映画界入りを決意、内諾をあたえていた。スカウトしたのは大映京都撮影所次長兼企画部長の松山英夫で、京マチ子の先輩・勝浦千浪を外部から推薦され、同年11月の京都・南座でのOSK公演『秋の踊り』に出ている彼女を見に行ったところ、京マチ子に目を引かれ、勝浦を深夜ひそかに京都撮影所へ呼んでカメラテストをしたさい、ついでに呼んでみた結果、彼女の個性に惚れ込み、二度の映画出演が評判にもならず映画には興味も関心もなかった彼女を口説いて大映入りを承諾させた。このときの本命勝浦千浪は大映が遠慮し、54年に東映へ入社した。 翌49年、京マチ子は1月1日からの日劇ショー『歌う不夜城』を最後の舞台として、1月末の契約切れとともにOSKを退団、2月に大映へ専属女優として入社する。入社第一回出演は安田公義監督の「最後に笑う男」で、滝沢修、日高澄子に、これも入社第一回の二本柳寛とが愛の三角関係を演ずるサーカス映画である。彼女は滝沢修ふんする元ぶらんこ乗りのピエロに想いを寄せる踊り子の役で共演したが、彼女の魅力と演技度胸に感心したこの映画のカメラマン石本秀雄に「たいした女優や、必ず大物になりまっせ」と予言させたものの、以後の数本もふくめてパッとせず、五本目の谷崎潤一郎原作「痴人の愛」49で、弾力的で豊かな肉体の妖しい美しさを見せて、ようやく魅力的な個性を発揮、出世作とする。これは監督の木村恵吾にとっても代表作となったが、彼女は宇野重吉を相手役に、天衣無縫な行動から発散するエロティシズムによって男を喜々として屈服させる不良じみた女主人公ナオミを好演。それまでの日本映画には、この映画のようにエロティシズムを楽天的で肯定的な喜劇性をもってうたいあげたものがなかっただけに作品的に評判となり、また映画のヒロインとしても従来にないタイプを、いとも楽々と演じているかのように見える京マチ子という女優の出現は、観客を驚かせるにじゅうぶんなものがあった。翌50年、伊藤大輔監督「遥かなり母の国」に、水芸師だった母(山田五十鈴)の昔の恋人で南米帰りの失意の中年男(早川雪洲)を実の娘として温かく迎える可憐な女奇術師を演じたが、大映は彼女を肉体派女優として売り出すのに懸命で、再び木村恵吾監督で「浅草の肌」を撮り、彼女は二本柳寛を相手役に、男という男は知りつくしたという熟れきった肉体を持つ女豹のようなレヴュー劇場の踊り子を主演。肉体派女優としてしか認められない自分の女優としての前途に不安を感じる。そうした矢先、黒沢明監督の「羅生門」に、森雅之の旅の武士・金沢武弘の妻で、三船敏郎の山賊多襄丸に夫の眼の前で強姦される真砂の役で起用され、いちやく日本の代表的女優といわれるようになる。この映画に何としても出たかった彼女は、メイクアップ・テストの日、眉をきれいにそり落として黒沢の前に出た。黒沢は最初、この役に原節子を考え、大映が推薦した京マチ子には若干のためらいがあったが、眉をさっさとそり落とすという役に対する理解の早さに、ためらいは一瞬にして消え、彼女の起用を決定したという。先の「痴人の愛」は原作が戦前のものであるにもかかわらず、彼女の演じた役のタイプは、まさに戦後的な解放された女であると見られたが、「羅生門」での彼女の役もまた、王朝時代を背景にして大正時代に書かれた小説の女主人公であるにもかかわらず、戦後だからこそはじめて表現できる新しいタイプの女であった。自己の主張を、とことん臆面もなく主張する女であり、男の言いなりになるどころか、男を真っ向から罵って引きずりまわす女である。そして彼女のダンスで鍛えたバネのきいた肉体は、つねに全力で演技することを要求する黒沢の演出によってスポーツマンのように力強く動き、美しい容姿がその激しい動きによって、これまでの日本的な美人の概念からは大きくはみ出した新しい魅力的な女性像をつくりあげたのであった。そのころの日本映画で、最もスピーディに激しく動ける俳優は三船敏郎であったが、この映画で京マチ子と三船敏郎が共演したいくつかの荒々しい場面は、戦前の因襲的な道徳観から解放された日本人が、どんなに奔放に、おのれの自我と欲望のままに喜々として魅力的に動きまわれるようになったかをまざまざと示しているように見え、その意味で画期的なものがあった。「火の鳥」に長谷川一夫と初共演したあと、今度は吉村公三郎監督「偽れる盛装」50に主演。これも彼女の演技力をいちだんと人人に認めさせる作品となった。戦前、山田五十鈴がオモチャという芸者を主演した溝口健二監督の「祇園の姉妹」36の現代版と言ってもよく、京マチ子ふんする京都・宮川町の芸者・君蝶は、金もうけのためには男をだまして手玉にとるのが自分たちの職業であると割り切って猛烈に張り切ってサーヴィスするが、客が落ち目になるとすぐ見捨ててかえりみない女である。しかし金のことしか頭にない嫌味な女かというと、決してそれだけの女ではない。ひたむきに役にぶつかってゆく懸命なその表情は、彼女の信念がただの金もうけ以上のもの、すなわち、男にもてあそばれる職業であることをいさぎよしとせず、むしろ男たちを乗り越えてやろうとしている女の意地のあらわれであることを示し、世間のしがらみや人情といったものに決して負けないぞとばかり、周囲の人々の非難の眼のなかに片ひじ張って、すっくと立っている姿は、その姿勢のプロポーションの立派さということもさることながら、一種の気迫を感じさせて感動的であった。また、それまでは関西なまりの克服に苦労していたが、ここではその関西弁を存分に駆使し、男と抱擁しながら足で障子をしめる官能的なシーン、あるいはラスト近く、温習会で踊る娘道成寺の扮装のまま、菅井一郎ふんする薬屋の番頭に追われ、電車の踏切にさえぎられ出刃包丁で刺される凄惨なシーンなど、彼女の体当たり的熱演は終始スクリーンに躍動して見事であった。この作品と「羅生門」の演技で彼女は51年3月発表の50年度毎日映画コンクールの女優演技賞を受賞。大女優としての地位を早くも決定づけるとともに、同年9月の第十二回ヴェネツィア国際映画祭で「羅生門」がグランプリ(サン・マルコ金獅子賞)を受賞するにおよび、彼女の名は国際的にも知られるようになる。同年は、松竹と競作の吉村公三郎監督「自由学校」にアプレ娘ユリの役で松竹版の淡島千景と競演、木村恵吾監督「牝犬」に志村喬ふんする謹厳実直な中年サラリーマンを豊満な肉体の魅力で引きずりまわすレヴューの踊り子を熱演、吉村公三郎監督にはひき続き起用され、谷崎源氏の映画化「源氏物語」に淡路の上の役で光源氏の長谷川一夫と二度目の共演、木村恵吾監督ともコンビを続け、「馬喰一代」51では三船敏郎と再度の共演で、荒らっぽい北海道の馬喰に想いを寄せる酌婦を熱演し、人気も急上昇、名実ともに大映のトップ女優となり、51年度のアカデミー賞で「羅生門」が最優秀外国語映画として名誉賞を受け、彼女の国際的声価は、さらに高まった。 大映とは年間五本の契約で、同社としては若手のスター女優に不足していたことから、いきおい彼女の負担は重くなったが、秘蔵っ子スターではあり、また彼女自身の作品本位という要求も入れて無理な出演は強制せず、ほぼ年間五、六本のペースで起用する。その大部分は興行価値の安全性をねらったメロドラマだったが、しかし三本か四本に一本くらいは熱演型の彼女の個性が発揮できるような作品を企画。木村恵吾監督の「美女と盗賊」52では森雅之と三国連太郎を相手役に平安朝末期の盗賊団の女頭目を力演、芥川竜之介の『群盗』を原作にした「羅生門」の二番せんじだったが、彼女の野性的な魅力はよく出ていた。スクリーンのうえでは、いぜんとして肉体派、官能派女優というレッテルがつきまとっていたが、私生活は対照的に浮いた噂ひとつなく、自ら戦前派と称して地味そのもの。趣味も映画、読書に海釣りとあって、およそ女優らしくない女優といわれ、そのうえ演技に対する取り組み方も、いじらしいまでにひたむきで真摯という姿勢をくずさず、53年には大映の巨匠監督にあいついで起用され、溝口健二監督「雨月物語」、成瀬巳喜男監督「あにいもうと」、衣笠貞之助監督「地獄門」という、いずれも秀作となった三本の作品に主演、演技歴に輝かしい一ページを加える。「雨月物語」は上田秋成の『雨月物語』九話のうち『蛇性の淫』と『浅茅が宿』の二話をまとめた川口松太郎の小説を原作に、戦国時代を背景に戦争によって欲望をかきたてられた人間の悲劇を描いたもので、彼女は焼物を売りに旅に出た陶工が誘い込まれる幽霊屋敷の女主人で、織田信長に滅された武士一族の若い美貌の死霊を演じ、出演場面はあまり多くはないが、この映画を世界的な名作といわれるようにした幽玄で、しかもエロティシズムのただよう美しさをもって形象化する面に大きく貢献した。相手役の陶工は「滝の白糸」52(野淵昶監督)でも共演した森雅之が演じた。「あにいもうと」は室生犀生の原作による木村荘十二監督の戦前36年作のリメイクで、田舎から東京に奉公に出て、あばずれとなり妊娠して帰った娘をめぐる肉親愛の相剋を描いた作品で、彼女は女だてらに罵詈雑言の限りをつくして兄貴とつかみあいの喧嘩をする妹を演じた。身をもちくずした女の役は「馬喰一代」でも経験ずみだったが、ここでは成瀬巳喜男のきめ細かな演出のもとで、しっとりとうるおいをたたえ、こうした役柄を完成させた。兄の役は、これも森雅之であった。「地獄門」は菊池寛の『袈裟と盛遠』を原作にした王朝絵巻で大映のカラー映画第一作である。彼女は長谷川一夫ふんする武将・盛遠に懸想され、武力をもって自分のものにしようとする彼に対して夫を殺したら意に従うと偽り、その身替わりとなって殺される侍の妻・袈裟を演じた。王朝ふうの豪奢な衣裳をまとって、おっとりとかまえているといったヒロインで、あまり演技の見せ場はなかったが、息をのむような華麗なこの大作にふさわしい美しさを見せた。「雨月物語」は同年9月の第十四回ヴェネツィア映画祭でサン・マルコ銀獅子賞第一席に選ばれ、この年は金獅子賞が該当なしだったから事実上のグランプリとなり、また「地獄門」は54年4月のカンヌ映画祭でグランプリ、54年度の第二十七回アカデミー賞で名誉賞を受け、彼女はグランプリ女優と呼ばれるが、自身も54年12月、全米映画批評委員会の特別賞を「地獄門」の演技で受賞、国際女優としての地位を決定づけた。同年は豊田四郎監督の「或る女」に主演。失敗作といわれたが、京マチ子の個性を積極的にひき出そうとして企画された野心作で、有島武郎の小説を原作に、人々が自我の主張を悪と感じていた明治30年代、欲望のままに敢然と生きようとした女を描き、彼女は熱演だったが、映画そのものは明治30年代というひっそりとした、おだやかな時代らしくないエクセントリックなスタイルでつくられ、その不自然さが不評の原因となった。以後、「愛染かつら」(共演・鶴田浩二)、「春琴物語」(共演・花柳喜章)といったリメイク作品にヒロインを演じて大映のドル箱スターとしてのつとめも果たし、55年には再び溝口健二監督に起用され、大作「楊貴妃」で題名役を主演。安禄山という軍人の出世の道具として唐の玄宗皇帝に王妃として差し出され、叛乱の犠牲となって刑場の露と消える、いわゆる傾国の美女という大役だったが、この映画では、たいへんうぶで純情な役になっていて、食い足りない感じを抱かせ、高貴な女の冷たさに欠け、「或る女」での知的な女性像表現のまずさとあいまって、それまで破竹の勢いで駆けのぼってきた彼女もついに壁にぶつかったと評された。ついで長谷川一夫が戦前の39年に入江たか子と共演して評判をとった「藤十郎の恋」のリメイクに再び主演の長谷川一夫と組んでお梶を演じ、これは伝法肌の恋を得意としてきたそれまでの彼女を抑えて女心の細やかさを好演し、長谷川との呼吸もピタリと合って古風だが、きびしい男女の悲愁美を描き出した。このあと「新女性問答」55に主演。盲馬車といわれるほど映画ひとすじで、自ら社交べた、出ぶしょうといっていた彼女だったが、同年8月22日、ヨーロッパへ旅立つ。「楊貴妃」が出品された第十六回ヴェネツィア映画祭に出席するためと、アメリカで瞼の父・石田治三郎と会うためであった。父の消息は終戦後、その妹・清子の調べでブラジルのサンパウロ市に住んでいることが判り、父を名のって吹き込んだレコードが京マチ子のもとへ送られてきたのをきっかけに父娘の間で文通がかわされ、51年1月には“銀幕で親娘の対面”という見出しで、彼女が出演したブラジル帰りの移民の父性愛を描いた「遥かなり母の国」を父が見て涙したことを報じたサンパウロの邦字新聞『パウリスタ』の三歳の彼女を抱いてうつした父の写真入りの記事が『毎日新聞』に掲載され、また52年にはウルグアイ映画祭出席のため南米へ飛んだ大映常務取締役・松山英夫に彼女が父へのみやげものを託すといういきさつがあった。父はサンパウロ市ボスケ区に刺繍工芸家として洋品店を営み、新しい妻との間に三人の子供をもうけ、この55年には六十三歳だった。「楊貴妃」は受賞の対象にならなかったが、映画祭終了後、ヨーロッパ各国を旅してニューヨークへ飛び、9月19日、ウオルドーフ・アストリア・ホテルでサンパウロから駆けつけた父と二十七年ぶりに対面。一週間をともに過ごしたのちロスアンジェルスへも同行、彼女は10月4日、帰国する。このニューヨーク滞在中、MGMから企画中の「八月十五夜の茶屋」に主演のマーロン・ブランドの相手役として出演を申し込まれる。ブランドや共演のグレン・フォードにも会い熱心にすすめられ、同年11月、日本ロケの下調べに来日したプロデューサー、ジャック・カミングズ、監督ダニエル・マンと大映社長・永田雅一の立ち会いで出演が本決まりとなる。 56年、溝口健二監督の遺作となった「赤線地帯」に黒人兵のオンリーあがりの売春婦の役で木暮実千代、若尾文子などと共演したあと4月16日から始まった「八月十五夜の茶屋」の奈良県の生駒ロケに参加する。悪天候のため撮影は一カ月で中止、ハリウッドで撮り直すことになり、彼女も6月から二カ月、渡米する。57年1月封切りのこの映画はブロードウエイのヒット・プレイの映画化で、沖縄を舞台に民主化政策をすすめるアメリカ占領軍と住民のズレを沖縄色や日本趣味を大胆にとり入れて描いた痛快で皮肉のきいた風刺喜劇で、彼女の役は村の救世主にまつり上げられたグレン・フォードふんする大尉の贈り物として捧げられる芸者ガールで、白地に紺の縦縞がくっきりの着物に目も鮮やかな橙(だいだい)色の帯をきりりとしめ、絹の日傘を肩にしてロータス・ブロッサム(蓮の花)という役名ピッタリのあで姿で登場、お色気つきの大サーヴィスで真面目な大尉を辟易させるという愉快な女。堂々たる貫祿と溢れんばかりのお色気で、まさに適役と評価された。これは彼女にとっては、はじめての喜劇映画で、停滞気味の彼女の突破口となったが、そうした彼女の新生面をひらこうと大映も躍起となり、永田社長が自分で見て彼女を主演に製作を命じた御園座の『名古屋おどり』に上演の北條秀司の新作舞踊劇『いとはん』の映画化「いとはん物語」57(伊藤大輔監督)では大阪の材木問屋の長女で、心は美しいのだが二人の妹とは似ても似つかぬ不器量な醜女という役を主演。社長以下、首脳部総動員でメイクアップに苦心し、粋な日本髪に黒じゅすかけた黄八丈の着物といういでたちながらゲジゲジ眉毛に団子鼻、自分の歯の前に義歯をつけて反(そ)っ歯にし、口には含み綿という顔をつくり上げ、母親から鶴田浩二ふんする美男の番頭を婿にといわれて喜ぶが、番頭は女中と将来を約束していると判って醜女なるがゆえに恋をあきらめなければならない哀れな女を演じ、作品はきれいごと過ぎて感銘が薄いと評されたが、彼女は演技派女優としての自信を身につけての好演と賞められた。しかし、その後の企画は彼女の魅力をよりいっそう引き出し、芸域を広げるといったものにならず、「赤線地帯」で「ヒステリックに絶叫したりするところよりも、何気なく図々しさを出している感情の煮えたぎるような平静な場面の方がずっといい」(『東京中日新聞』登川直樹)といわれ、彼女自身もこの映画で「いままでいつも与えられた役に正面からぶつかるだけだった私が、そういう押しの芝居ばかりでなく引く芝居もあるんだということに気がついた」(『東京新聞』-『京マチ子芸談』)にもかかわらず、それを示す機会にめぐりあえず、この57年なかばには「八月十五夜の茶屋」の成功があまりにも印象的だったせいもあって“岐路に立つ女優”などといわれ、後輩の山本富士子の急成長ぶりと、とかく対比されたりした。その山本富士子は京マチ子が「八月十五夜の茶屋」で日本を留守にしているあいだ、吉村公三郎監督「夜の河」56と市川崑監督「日本橋」56の二作で大女優としての風格を身につけ、人気は京マチ子をしのぐものさえあったが、吉村公三郎監督の「夜の蝶」で二人は競演ということになる。銀座の一流バーのマダムの男がらみの激しい商売合戦を描いたもので、京マチ子の嬌慢なマダムはメロドラマ的ではあったが派手な大芝居もあっておもしろい役だったが、批評家からは山本富士子に完敗といわれ、次の、これも永田社長じきじきの命令による市川崑監督との初顔合わせ「穴」57では銀行マンの横領事件に巻き込まれた美人記者にふんし、知性もあれば気っぷもいいという女スーパーマン的なヒロインを演じたが、コミック・スリラーとしては不消化で、彼女の魅力を増幅したとはいえなかった。57年12月、フィンランド映画記者協会選出のユシイ賞(外国映画演技賞)を「リチャード三世」のローレンス・オリヴィエとともに、「地獄門」で受賞した。58年、三十年ぶりにアメリカから帰国した移民の花嫁の財産をめぐる家族の醜い争いを描いた新藤兼人監督の力作「悲しみは女だけに」に、主演は田中絹代だったが、彼女の姪で夫が戦死したあと男から男への荒んだ生活をしてきた気性の激しい女の役で熱演型の本領を発揮し、衣笠貞之助監督の大阪の芸人社会を背景にした人情物「大阪の女」では主役の元・漫才師の娘で底抜けのお人好しに庶民性をにじませ、一つの持ち味を見せた。しかし、いぜんとして彼女の新しい魅力を引き出す作品に乏しく、“グランプリ女優の限界?”“危機に立つ女優”などと芸能ジャーナリズムの関心の対象となり続ける。それだけ彼女に対する周囲の期待が大きかったということだが、59年の市川崑監督との再度の顔合わせによる谷崎潤一郎・原作「鍵」では、精力がとみに衰え若返り注射などをしている老境の夫の若い後妻で、夫の娘の婚約者と仲よくなるという、それでいて一見、無邪気で貞節な女を主演。夫を演じた中村鴈治郎の巧さともよく噛み合って、単純な熱演とは違った抑えた演技のなかからユーモアをにじみ出させ、このブラック・コメディをおもしろいものにするのに大きな役割を果たした。この彼女が見せた演技者としての円味は、60年の同じ市川崑監督の「ぼんち」(山崎豊子・原作)では、いっそうくっきりと見られるようになる。祖母と母が実権を握る大阪・船場の老舗の一人息子の一代記を市川雷蔵が主演した作品だが、彼女は料亭の仲居頭にふんし、妾が死んでも、しきたりから葬式を出してやれずに男泣きに泣く主人公を見て自分の体を投げ出して慰めるという働き者で粋な女を好演。彼女が本来もっている庶民的で律義な性格をにじませたものとして魅力的だった。しかし、この時期、彼女のいちばん見事な演技は、小津安二郎監督が大映で撮った、ただ一本の作品である59年の「浮草」での旅役者の女といってよい。田舎の巡業先で情夫の座頭が昔の女と会っているのを知って嫉妬し、女の家まで押しかけて行って、土砂降りの雨の道をはさんで、道の両側の軒下と軒下で、中村鴈治郎の演じる座頭と罵り合う。これは、熱演であると同時に、そこに何ともいえないうま味が加わっていて、成熟した絶品ともいえる名演であり、三十五歳という年齢と十年間の演技キャリアをフルに発揮したものであった。「ぼんち」を撮り終えたあとの60年3月、「鍵」が出品されたカンヌ映画祭への出席を兼ねてヨーロッパ、アメリカ旅行に出発。「鍵」はグランプリに次ぐ審査員特別賞を受賞。これはまた3月発表のハリウッド外人記者協会のゴールデン・グローブ賞の最優秀外国映画賞にも選ばれ、彼女はロスアンジェルスでそのトロフィーを自ら受け、6月はじめ帰国する。その後の彼女は、たいていの作品が若い女優を主役とする日本映画では、さすがに主演のチャンスは減ったものの、増村保造監督の軽快な喜劇「足にさわった女」59に刑事役のハナ肇と組んで女スリを伸び伸びと好演、吉村公三郎監督のこれも喜劇「婚期」61では婿さがしを焦る二人の小姑にいびられ悩まされる人妻をコミカルに演じて笑いを誘い、ポーカー・フェイス型のコメディエンヌとして精彩を発揮。61年7月、胆のう炎で七カ月の静養をよぎなくされ、この間は70ミリの大作「釈迦」61につきあい程度で出演したのみだったが、62年早々には井上梅次監督の「黒蜥蜴」にブラック・タイツ姿の女賊で元気な姿を見せた。以後、彼女にふさわしい企画がないまま出演本数はぐっと減るが、増村保造監督「女の一生」62では森本薫が創造し、文学座の杉村春子が当たり役とした主人公・布引けいに挑戦、減量して十六歳から五十八歳までの女の一生を演じ、批評はそれほどよくはなかったが意欲はじゅうぶん買われた。大映のトップ女優は62年を境に山本富士子をも抜いた若尾文子に交替。そうしたなかで京マチ子は、63年は若尾文子が主演した「女系家族」に共演したのみで4月から四カ月間の海外旅行に出、帰国してからは11月の大阪・新歌舞伎座開場五周年記念興行の『舞踊・春秋』『大阪物語・誓文払い』『雪乙女』『馬賊芸者』に出演する。舞台はOSK退団後は55年1月、古巣の大阪劇場のレヴュー『世界を踊る女王』に出ただけだったが、新歌舞伎座出演を機会に、大映の了解のもとに舞台、テレビへ積極的に進出、映画も他社出演に随時応ずると、それまでの大映の“箱入り娘”から一転、新しい道を歩むようになる。テレビ出演の最初は64年7月のフジテレビ『一千万人の劇場』のために書きおろした水木洋子・脚本の『あぶら照り』で、これが同年、東京映画で豊田四郎監督により「甘い汗」の題で映画化されることになり、テレビと同様、彼女が主演に望まれ、第一回の他社出演となるが、これは体あたり熱演タイプの彼女の芸風をとことん発揮した力作として興味深いものとなった。十九歳で私生児を生み、家族の犠牲となって生活のために必死になって稼ごうとする下層のいっぱい飲み屋の女の役で、妾にでも何でもなって色気で金を得たいが、その色気が三十六歳という年齢からあまり役に立たなくなっているという辛さで焦りに焦る。ごみごみした風景のなかでの泥まみれの力演は高く評価され、キネマ旬報女優賞と毎日映画コンクール女優主演賞がおくられる見事な結果となった。水木洋子は、その後もNHK『豆菊はんと雛菊はん』、フジ『朝顔』、TBS『三界に家なし』65など、京マチ子主演のテレビ・ドラマを書き、そこでは力演型というよりも、むしろ何気なくぼんやりしているような態度のなかからユーモアをにじみ出させるという京マチ子のコメディエンヌとしての力量をさらに発展させるのに成功している。そうした彼女の新しい持ち味を生かした映画に、勅使河原宏監督の「他人の顔」66(安部公房・脚本)があり、大火傷を負ったことから医者に仮面をつくってもらい他人の顔になった男に、それが自分の夫だと知りながら、わざと隠して姦通される女を奇妙な味わいをもって好演した。71年12月の大映倒産後は大映テレビに所属。74年と75年には山本薩夫監督の財界と政界の裏面をえぐった二本の大作に出演。その「華麗なる一族」74では佐分利信ふんする銀行頭取の秘書であり愛人でもある高慢な女の役で妻妾同時にベッドをともにするという大胆なシーンも演じのけ、「金環蝕」75では陰微な権力をふるう首相夫人に冷酷な一面をチラリとのぞかせ、出演場面こそ少いが、印象的だった。また今井正監督の「妖婆」76では久しぶりに主演。初い初いしい新妻から一転、妖婆に変身するという女主人公を演じた。最新作では「男はつらいよ・寅次郎純情詩集」76で、寅さんのマドンナとして、いかにもおっとりした元ご大家の令嬢に持ち味を見せた。その後の主な舞台には歌舞伎座『大菩薩峠』(市川団十郎共演)64、新歌舞伎座『お吟さま』64、『反逆児』(中村錦之助共演)68、『花の吉原百人斬り』79、日生劇場『孔雀館』(中村勘三郎共演)65、新橋演舞場『春の嵐』65、東京宝塚劇場『春夏秋冬』67、『好色五人女』74、帝国劇場『歌麿』72、『花の巴里の橘や』78、芸術座『離婚』80などがあり、テレビはTBS『春や春』66、『嫁ふたり』72、『犬神家の一族』、『かあさん堂々』77、『まんまる四角』73、『家路-ママ ドント クライ』79、日本テレビ『はいから鯉さん』67、『火曜日の女シリーズ/蘭の殺人』69、『姉さんの秘密』72、フジ『春一番』68・69・70・71・76、NHK『台所太平記』70、『帯に短かし襷に長し』72、『四季の家』74、『離婚』80ほかがある。この間の71年8月、森繁久弥、伴淳三郎らの『あゆみの箱』のサンパウロ市でのチャリティ・ショーに参加、父と二度目の対面をする。かつて57年に黒沢明は彼女について「非常に純情で地味な感じの人だし、結婚すれば、いい世話女房になるという気がする」と語ったが、彼女自身は結婚することなく、独身をとおしている。2019年(令和元年)5月12日、心不全のため逝去。享年95歳。