1967年公開、大島渚の創造社製作、松竹配給の劇映画。
屈辱的な敗戦により、国家と天皇、家父長制、教育者等、ほぼ総ての権威と価値観が崩落した戦後日本。
曖昧になった倫理道徳、“性”の紊乱とスチューデント・パワーなどを交錯させた意欲作。
民俗学&文化人類学的春歌解釈と、反戦→愛→フリー・セックスに絡んだカレッジ・フォークの二項対立という二元論風シンプルな視点に立脚?
「20世紀最後の文学的課題は“性”のみ。それ以外は、ドストエフスキーが書き尽くした」、という有名なテーゼがある。
劇中の台詞に登場するのは、過激な性表現で知られ、日本人ピアニストのホキ徳田の夫でもあった文豪ヘンリー・ミラー。
さらに、フリー・セックス論を危険思想と見做され逮捕、獄死したヴィルヘルム・ライヒ等が背景にあったと思われる作品。
裏加山雄三の異名も具えた荒木一郎主演、キイ・パーソンとなる伊丹十三が一三(かずみ)と名乗っていた頃。
サラブレット串田和美、後に伊丹と結婚する宮本信子、お騒がせ女優吉田日出子、まだ楚々としていた田島和子が初々しい。
当時、高校生だった坂本龍一が何度も劇場に足を運び、食い入るように観たという逸話付き。
AVに慣れた若い世代なら、「それ程のものかよ。坂本、大したことねえじゃん」と、早合点される危惧が無きにしま非ず。
しかし、永遠の傑作はないけれども、歴史的作品は有り得るのだと言いたい。
春歌に関しては、俳優の小沢昭一やジャーナリストの竹中労、批評家平岡正明などが貴重な研究を残していることを付記しておきます。
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フォーマット | 色, ドルビー, レターボックス化 |
コントリビュータ | 大島渚, 小山明子, 田島和子, 伊丹一三(伊丹十三), 荒木一郎 |
言語 | 日本語 |
稼働時間 | 1 時間 43 分 |
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商品の説明
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大学受験のために前橋から上京した中村(荒木一郎)は、試験場にいた469番の女子受験生(田島和子)に魅力を感じた。また、デモから離れていった教師・大竹(伊丹一三)と一緒にいた高子(小山明子)にも興味を覚えた。その後、大竹を囲んで男子4人と女子3人で酒席を設けたのだが…。
登録情報
- アスペクト比 : 2.35:1
- メーカーにより製造中止になりました : いいえ
- 言語 : 日本語
- 製品サイズ : 25 x 2.2 x 18 cm; 81.65 g
- EAN : 4988105065628
- 監督 : 大島渚
- メディア形式 : 色, ドルビー, レターボックス化
- 時間 : 1 時間 43 分
- 発売日 : 2012/12/21
- 出演 : 荒木一郎, 小山明子, 田島和子, 伊丹一三(伊丹十三)
- 言語 : 日本語 (Mono)
- 販売元 : 松竹
- ASIN : B009IX4DTO
- 原産国 : 日本
- ディスク枚数 : 1
- Amazon 売れ筋ランキング: - 93,653位DVD (DVDの売れ筋ランキングを見る)
- - 4,551位日本のドラマ映画
- カスタマーレビュー:
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2023年7月25日に日本でレビュー済み
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もう少しマシな作品かと思っていたが、よく言えば観念的、悪く言えば単なる駄作でしかない。
新しいとか古いとかではなく、作品の体をなしていない。
大島渚監督は何か訴えたいものがあったのだろうが、作り方が行き当たりばったりで、思いつきで撮影して
いったに違いない。才能の片鱗も伺えない。
こんな作品を見る暇があったら、別の作品を探した方が良い。
新しいとか古いとかではなく、作品の体をなしていない。
大島渚監督は何か訴えたいものがあったのだろうが、作り方が行き当たりばったりで、思いつきで撮影して
いったに違いない。才能の片鱗も伺えない。
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2021年8月28日に日本でレビュー済み
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1967年製作でおそらく、この映画に関わった大半の人は亡くなっているでしょう。「日本春歌考」と言う本があり、インスパイアされた大島渚監督が物語を創作して、それをあの時代に活動した人々が製作し、その当時の人々に向けて上映した、ということを強く感じてしまいます。50年後の私が観てある興味深さを感じはしますが、大島監督がおそらく意図したであろう、当時の観客へ向けてのインパクトは時間の階層に吸収されてしまっているように感じます。新聞の古い縮刷版に興味を感じるのは、失われたもの、忘れさられたものが記録されているから。
最初地方から受験に東京に出てきた4人の高校生が、雪の街を喋りながらダラダラ歩き続けます。「性欲的」などと言っていますが、今であれば単に性欲、ヤリたいとなる所です。今の方が、観念性が後退し、作中歌われる歌に近いですが、同じとは言えません。東京に下宿する教師の死を転回点として、高校生たちが東京を彷徨しながら、60年代の大島作品特有の観念劇に傾斜します。教師の恋人である小山明子がそれに拍車を掛けるんです。
高校生にとって、女性を犯すこと、あるいはカレッジ・フォーク的な欺瞞に組み込まれることに反抗する事が同質であるみたいですね。一方、何人か出てくる女性は観念的な存在で、リアルなのは歌声だけの様な感じです。脚本に大島はじめ4人の男性が雁首揃えているせいですかね。
撮影は素晴らしい。最初の雪のシーンから構図の良さやロケの色彩感が良いんです。黒い日の丸を掲げたデモ隊が奥に、手前に黄色い制服の園児たちが横断歩道を渡るイメージとか、荒木一郎と小山明子が明け方の街を望む高い位置を長い横移動でとらえたシーンとか忘れがたい。大体、「太陽の墓場」もそうだが、モノクロよりカラーの方が60年代の大島作品は好ましいと思いませんか。
吉田日出子は可愛らしかった。小山明子は綺麗だが時々鳥居みゆきに見えました。
1967年の東京がカッコよく映っているけれど、女優さんが綺麗に見えるのと同じで、映されていない部分もある事だけは確かなんです。
最初地方から受験に東京に出てきた4人の高校生が、雪の街を喋りながらダラダラ歩き続けます。「性欲的」などと言っていますが、今であれば単に性欲、ヤリたいとなる所です。今の方が、観念性が後退し、作中歌われる歌に近いですが、同じとは言えません。東京に下宿する教師の死を転回点として、高校生たちが東京を彷徨しながら、60年代の大島作品特有の観念劇に傾斜します。教師の恋人である小山明子がそれに拍車を掛けるんです。
高校生にとって、女性を犯すこと、あるいはカレッジ・フォーク的な欺瞞に組み込まれることに反抗する事が同質であるみたいですね。一方、何人か出てくる女性は観念的な存在で、リアルなのは歌声だけの様な感じです。脚本に大島はじめ4人の男性が雁首揃えているせいですかね。
撮影は素晴らしい。最初の雪のシーンから構図の良さやロケの色彩感が良いんです。黒い日の丸を掲げたデモ隊が奥に、手前に黄色い制服の園児たちが横断歩道を渡るイメージとか、荒木一郎と小山明子が明け方の街を望む高い位置を長い横移動でとらえたシーンとか忘れがたい。大体、「太陽の墓場」もそうだが、モノクロよりカラーの方が60年代の大島作品は好ましいと思いませんか。
吉田日出子は可愛らしかった。小山明子は綺麗だが時々鳥居みゆきに見えました。
1967年の東京がカッコよく映っているけれど、女優さんが綺麗に見えるのと同じで、映されていない部分もある事だけは確かなんです。
2020年12月28日に日本でレビュー済み
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先生を見殺しにするくだりはすごい文学的だなーと思った。
口先だけの大人に対する反発を、男子生徒からも大島監督自身からも嗅ぎとれた。
男子生徒からはニヒリズムに似たクールさが漂っていて、松本大洋の青い春を思い出した。
終盤は一気に抽象的になって、「エヴァンゲリオン」ですか!?ってなったが、
他のレビュアーさんが書いていた「満鉄小唄」や「紀元節」などを調べて、なんとなく理解できた。
僕たちは何も知らないし、何も教えられていない。自分でもっと調べないと、ただ反戦を叫ぶギター少年というモブになるのだろう。
ポップな感じと(個人的に)シュールな感じがいいバランスで、すごい楽しめた。
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他のレビュアーさんが書いていた「満鉄小唄」や「紀元節」などを調べて、なんとなく理解できた。
僕たちは何も知らないし、何も教えられていない。自分でもっと調べないと、ただ反戦を叫ぶギター少年というモブになるのだろう。
ポップな感じと(個人的に)シュールな感じがいいバランスで、すごい楽しめた。
2017年3月31日に日本でレビュー済み
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長い間、大島渚って、BL色の強い映画を撮るイマイチ乗れない監督(笑)という先入観があってほとんど観て来なかったのだが、運命のいたづらで『太陽の墓場』(‘60)と『無理心中 日本の夏』(’67)と立て続けに観て、初期作品はおそろしく面白い事に気づいた。で、本作『日本春歌考』(‘67)も気にはなっていたのだが、レビュアー仲間とのおしゃべりがきっかけで衝動鑑賞。
いや、こりゃたまげたね。おそろしく刺激的で過激な映画じゃないの。大島渚の初期作品ってヤバいね(笑)!
前橋から大学受験のために上京した中村(荒木一郎)らは、大学構内でベトナム反戦の署名活動にサインしていた受験番号469番の美少女、藤原眉子(田島和子)に惹かれる。中村ら4人は受験会場を出た後、2月11日の「紀元節」復活(「建国記念の日」施行)に反対する「黒い日の丸」を掲げたデモ隊に出くわす。そのデモに加わっていたのは、かつての教師、大竹(伊丹十三)とその恋人、谷川高子(小山明子)だった。
大竹は中村らと居酒屋に入るが、そこで客が歌っていた軍歌に対抗して、大竹は突然、春歌の「ヨサホイ節」を歌い出す。大竹はその夜、下宿でガス中毒で死んでしまう。
中村らは藤原眉子が住む大邸宅を訪れる。そこでは反戦のフォークソング大会が行われていた。中村の仲間の金田幸子(吉田日出子)が、それに対抗するように「満鉄小唄」を歌うが、ブルジョワの若者たちに邸宅に連れ込まれ、犯されてしまう。
一方、中村は眉子に「僕らは空想の中で君を犯した」と告げる。すると眉子は「その空想の教室に行きましょう」と答え、彼らは大学の講堂へと向かうのだった・・・。
以上があらましだが、この映画は、敗戦によって一度廃止された「紀元節」が復活することになった’67年2月11日、その「建国記念日」の反対デモを重要なファクターとして取り込んだ作りになっている。しかし本作は、政府が推し進めようとする愛国主義に反抗する左翼思想の映画ではなく、むしろそうしたインテリに対してすら疑問を投げ掛けるような作品である。
本作を観ていてまず気づくのが、様々な対立構造だ。
「赤い日の丸」:「黒い日の丸」
「ノンポリ」:「インテリ」
「春歌(民謡)」:「流行歌」
「男」:「女」
「空想」:「現実」
そしてタイトルからも判るように「歌」による対立がこの映画の軸になっている。
◆居酒屋で男たちが歌う「軍歌」に対し、元教師の大竹が歌う「ヨサホイ節」(春歌)
◆大竹の通夜で、友人たちの「革命歌」に対し、中村が歌う「ヨサホイ節」(春歌)
◆フォークソング大会で、若者たちが歌う「プロテストソング」(ウディ・ガスリーやレッドベリーなど)に対し、金田幸子が歌う「満鉄小唄」(慰安婦の心情を歌った哀歌)
◆同大会でも中村が、フォークソングに対抗して「ヨサホイ節」(春歌)を歌う
「春歌(猥歌)」というのは、つまりは「民謡」であり、この映画の中ではつねに「軍歌」「革命歌」「フォークソング」、要するにメジャーでポピュラーなものに対するカウンターとして歌われる。荒木一郎が演じる中村は地方から上京してきたノンポリの若者で、彼は「右」にも「左」にも属さない。「春歌」は中央集権から外れた「地方」の暗喩であり、この映画が描いているものは、マイノリティからの、マジョリティ民主主義への異議申し立てなのだ。
「反戦フォークは嫌い。フォークソングは、時代の要請によって演じざるをえない姿だと思う。炭鉱で坑夫たちや女たちが歌ってる歌のほうが、働く人間の基調低音としてあるんじゃないか。今はやりの歌を歌っているのはぜんぶインチキだ、みたいなのがありました」(『大島渚 1968』大島渚・著/青土社・刊)
故・大島渚夫人でもある小山明子さんのトークショーで聞いた事があるのだが、大島監督はとにかく権力を嫌い、弱者の味方に立つ方だったそうだ。若い監督には理解を示し、励ます。そういう人柄だったという。
本作が面白いのは、単なる反権力思想の映画とは一線を隔している点である。ガス中毒で死んでしまう教師の大竹(伊丹十三)は左翼インテリで、中村たちに「春歌」を受け渡して死んでいくわけだが、中村たちは大竹の思想は受け継がず、「春歌」を独自解釈した武器としてマジョリティーに対抗していくのである。大竹の思想を受け継ぐのは、恋人の谷川高子(小山明子)の方である。ここからも、大島監督は名もなく、貧しく、学も思想なく、朴訥に土に生きる人々の思いを置き去りにしたインテリたちの反権力アジテーションがいかに空虚なものか、を訴えているのではないかと思われる。
本作のキーとなる人物の一人に、「受験番号469番」の藤原眉子(演じるは田島和子)がいる。
眉子は一見、反戦=反権力の側の人間のようだが、実はそうではなく、裕福な家庭に育ったお嬢さんで、まるで女王のように反戦派学生たちをはべらせている。地方出身の中村の対極にある人物である。最初に言ってしまうが、この眉子はアマテラスオオミカミ=日本の虚像を象徴しているのではないだろうか。
なぜ突然、日本の神話が出て来たかというと、ラストの大学の講堂でのシーン、中村らが「ヨサホイ節」を歌いながら眉子の服を脱がせていく最中に、中村に同行していた谷川高子が突然、日本の神話を引用しながら「騎馬民族征服論」(朝廷の朝鮮半島起源説)を演説し始めるのである。大雑把に言うと、大和朝廷というのは、朝鮮半島から渡来した異民族が、日本列島に住んでいた民族を征服し打ち立てた王朝だという説である。
その際、大和朝廷の侵略に抗い、征服・支配された勢力が「地方」である。東北のエミシや九州のクマソやハヤト、そして出雲族もそうした「まつろわぬ民」のひとつで、大学受験のために地方から上京してきた中村(荒木一郎)は、権力に屈服させられた側=抑圧されたマイノリティ=出雲族を代表・象徴するキャラクターと解釈できる。彼らはマイノリティ(弱者)であるがゆえに「空想」の中でしか目的を達成する事ができず、「春歌」という手段でマジョリティ=「権力」=「現実」に反抗するのである。
本作に関してもう一人重要な人物がいて、それは中村の仲間の金田幸子(演じるは吉田日出子)だ。彼女は、フォークソング大会に突如乱入して「満鉄小唄」を歌うのだが、彼女は在日朝鮮人だという事がこれによって暗示される。この金田という少女は複雑なキャラクターで、かつて海の向こうでやらかした数々の狼藉を棚に上げて、いけしゃあしゃあと反戦を叫ぶ日本(眉子と取り巻きのインテリ学生たち)に対する批判、それともうひとつは、在日などと差別している連中に対し、彼らが差別している人たちこそが、日本人のルーツなのではないか、という2重の皮肉が込められているのである。
そもそも建国記念日というのは、神武天皇が即位したとされている日だが、これは神話の中の架空の人物だというのが定説になっている。この日の根拠となっている「日本書記」自体が、神話の時代が混在した歴史書であり、元を正せば幕末に討幕派の旗印として神武天皇が神格化されたものを、明治政府がそのまま「紀元節」として法制化してしまった。それが戦後にまた復活したため、左翼系インテリから歴史的根拠がない出鱈目と批判されているものである。
『日本春歌考』は、日本という国の起源は、幻想の上に成り立っているという危うさを暴き立てようとする、挑発的・・・いや挑発どころか極めてアナーキーな作品なのである。
さて役者はそろった。問題のラストシーンへなだれ込んで行くとしよう(笑)。
本作に関する色々な論評を読むと、「春歌」による国家権力や左翼インテリへの異議申し立てだという解釈ではほぼブレはなく、筆者が初見で直観的に感じた事と大筋で同じだが、これにもうひとつ、何度か前述している「空想」と「現実」の対比という要素を付け加えたい。
映画のラストは、中村たちが空想の中で眉子を犯したという大学の講堂で、中村たちが眉子を相手にそれを再現する、つまり「空想」が「現実」になるわけである。この瞬間、本作の中で対立関係だったものが一挙に反転する、とメタ解釈する事ができる。
壇上には3人の女がいる。
「朝廷の半島紀元説」を唱え、「日本人のふるさとは朝鮮です!」とアジる谷川高子(演じるは小山明子)は、狂言回し的な役割だ。
中村たちに犯され、首を絞められる藤原眉子(演じるは田島和子)は、日本という国の虚像を象徴していると解釈できる。
そして、ただ黙って立ち尽くす金田幸子(演じるは吉田日出子)は、朝鮮人であり一方で彼女こそが日本人のルーツかもしれない、という存在と捉える事ができる。
この時、講堂の壁には「従来の赤い日の丸」と「黒い日の丸」が、対立するかのように並んでいる事が見逃がせない。このシーンは、「まつろわぬ民」である中村による「偽りの女王」である眉子の殺害と、「新たな女王」幸子の戴冠を暗示している、のではないだろうか。
さらに言うと、左翼インテリである高子は「革命家」と解釈する事もできるのだが、ここでは民衆(中村)は決して革命家に煽動される事なく、自らの意思で首を絞める。つまり高子のアジテーションは、彼女の単なる自己満足的な主張として空しく響いているだけだという事も忘れてはならない。
そして最後の、眉子の謎の言葉「真実・・・ね」とは、自らがその虚偽性を認めるセリフだと解釈するとどうだろうか。
これら一連の儀式が、皇族が通う事で知られる学習院大学の講堂で行われる訳である。これはもうやんちゃとかそういうレベルでは片づける事ができない、非常に過激な風刺劇である。
とは言え、以上は筆者の思想を開陳したわけではなく、あくまで作品に対する解釈である事をエクスキューズしておきたい(笑)。
本作は、非常に短い制作期間でほとんど即興的に撮影されたため、綿密に計算された、というよりは極めて暗示的、抽象的に作られている映画でもある。
「ぼくには、自分にわからないものを受け入れる、表現することの喜びみたいなものがあった。なぜ荒木一郎が面白いかというと、解釈不可能なんだよ。自分で説明しろっていったって、できないんだもん」- 『大島渚1968』大島渚・著/青土社・刊
大島監督ご本人も、ラストシーンへ行くまでは、本当はもっと丁寧な手続きをしなければいけないけれども、それをやってられなくて、映画の時間も、現実(制作)の時間も足りない。突然そこへ飛躍してしまうのだけれど、でも唐突でなければああいう行動はとれない、といった旨の事をおっしゃっている。
それでもすごいなぁと思うのは、これほど抽象的に描かれていても、少なくとも大島渚という監督がこの映画で描こうとしている事は何なのか、それは明確に理解できるという作りになっているという点である。そこが恐るべし、と思うのだ。
【参考文献】『大島渚1968』大島渚・著、青土社・刊/『大島渚の時代』小野沢稔彦・著、毎日新聞社・刊/『大島渚と日本』四方田犬彦・著、筑摩書房・刊/『大島渚「日本春歌考」について』(ネット上のまとめサイト。資料性が素晴らしく高くて、とても参考になりました)/ほか、ネット上の映画ブログ多数
いや、こりゃたまげたね。おそろしく刺激的で過激な映画じゃないの。大島渚の初期作品ってヤバいね(笑)!
前橋から大学受験のために上京した中村(荒木一郎)らは、大学構内でベトナム反戦の署名活動にサインしていた受験番号469番の美少女、藤原眉子(田島和子)に惹かれる。中村ら4人は受験会場を出た後、2月11日の「紀元節」復活(「建国記念の日」施行)に反対する「黒い日の丸」を掲げたデモ隊に出くわす。そのデモに加わっていたのは、かつての教師、大竹(伊丹十三)とその恋人、谷川高子(小山明子)だった。
大竹は中村らと居酒屋に入るが、そこで客が歌っていた軍歌に対抗して、大竹は突然、春歌の「ヨサホイ節」を歌い出す。大竹はその夜、下宿でガス中毒で死んでしまう。
中村らは藤原眉子が住む大邸宅を訪れる。そこでは反戦のフォークソング大会が行われていた。中村の仲間の金田幸子(吉田日出子)が、それに対抗するように「満鉄小唄」を歌うが、ブルジョワの若者たちに邸宅に連れ込まれ、犯されてしまう。
一方、中村は眉子に「僕らは空想の中で君を犯した」と告げる。すると眉子は「その空想の教室に行きましょう」と答え、彼らは大学の講堂へと向かうのだった・・・。
以上があらましだが、この映画は、敗戦によって一度廃止された「紀元節」が復活することになった’67年2月11日、その「建国記念日」の反対デモを重要なファクターとして取り込んだ作りになっている。しかし本作は、政府が推し進めようとする愛国主義に反抗する左翼思想の映画ではなく、むしろそうしたインテリに対してすら疑問を投げ掛けるような作品である。
本作を観ていてまず気づくのが、様々な対立構造だ。
「赤い日の丸」:「黒い日の丸」
「ノンポリ」:「インテリ」
「春歌(民謡)」:「流行歌」
「男」:「女」
「空想」:「現実」
そしてタイトルからも判るように「歌」による対立がこの映画の軸になっている。
◆居酒屋で男たちが歌う「軍歌」に対し、元教師の大竹が歌う「ヨサホイ節」(春歌)
◆大竹の通夜で、友人たちの「革命歌」に対し、中村が歌う「ヨサホイ節」(春歌)
◆フォークソング大会で、若者たちが歌う「プロテストソング」(ウディ・ガスリーやレッドベリーなど)に対し、金田幸子が歌う「満鉄小唄」(慰安婦の心情を歌った哀歌)
◆同大会でも中村が、フォークソングに対抗して「ヨサホイ節」(春歌)を歌う
「春歌(猥歌)」というのは、つまりは「民謡」であり、この映画の中ではつねに「軍歌」「革命歌」「フォークソング」、要するにメジャーでポピュラーなものに対するカウンターとして歌われる。荒木一郎が演じる中村は地方から上京してきたノンポリの若者で、彼は「右」にも「左」にも属さない。「春歌」は中央集権から外れた「地方」の暗喩であり、この映画が描いているものは、マイノリティからの、マジョリティ民主主義への異議申し立てなのだ。
「反戦フォークは嫌い。フォークソングは、時代の要請によって演じざるをえない姿だと思う。炭鉱で坑夫たちや女たちが歌ってる歌のほうが、働く人間の基調低音としてあるんじゃないか。今はやりの歌を歌っているのはぜんぶインチキだ、みたいなのがありました」(『大島渚 1968』大島渚・著/青土社・刊)
故・大島渚夫人でもある小山明子さんのトークショーで聞いた事があるのだが、大島監督はとにかく権力を嫌い、弱者の味方に立つ方だったそうだ。若い監督には理解を示し、励ます。そういう人柄だったという。
本作が面白いのは、単なる反権力思想の映画とは一線を隔している点である。ガス中毒で死んでしまう教師の大竹(伊丹十三)は左翼インテリで、中村たちに「春歌」を受け渡して死んでいくわけだが、中村たちは大竹の思想は受け継がず、「春歌」を独自解釈した武器としてマジョリティーに対抗していくのである。大竹の思想を受け継ぐのは、恋人の谷川高子(小山明子)の方である。ここからも、大島監督は名もなく、貧しく、学も思想なく、朴訥に土に生きる人々の思いを置き去りにしたインテリたちの反権力アジテーションがいかに空虚なものか、を訴えているのではないかと思われる。
本作のキーとなる人物の一人に、「受験番号469番」の藤原眉子(演じるは田島和子)がいる。
眉子は一見、反戦=反権力の側の人間のようだが、実はそうではなく、裕福な家庭に育ったお嬢さんで、まるで女王のように反戦派学生たちをはべらせている。地方出身の中村の対極にある人物である。最初に言ってしまうが、この眉子はアマテラスオオミカミ=日本の虚像を象徴しているのではないだろうか。
なぜ突然、日本の神話が出て来たかというと、ラストの大学の講堂でのシーン、中村らが「ヨサホイ節」を歌いながら眉子の服を脱がせていく最中に、中村に同行していた谷川高子が突然、日本の神話を引用しながら「騎馬民族征服論」(朝廷の朝鮮半島起源説)を演説し始めるのである。大雑把に言うと、大和朝廷というのは、朝鮮半島から渡来した異民族が、日本列島に住んでいた民族を征服し打ち立てた王朝だという説である。
その際、大和朝廷の侵略に抗い、征服・支配された勢力が「地方」である。東北のエミシや九州のクマソやハヤト、そして出雲族もそうした「まつろわぬ民」のひとつで、大学受験のために地方から上京してきた中村(荒木一郎)は、権力に屈服させられた側=抑圧されたマイノリティ=出雲族を代表・象徴するキャラクターと解釈できる。彼らはマイノリティ(弱者)であるがゆえに「空想」の中でしか目的を達成する事ができず、「春歌」という手段でマジョリティ=「権力」=「現実」に反抗するのである。
本作に関してもう一人重要な人物がいて、それは中村の仲間の金田幸子(演じるは吉田日出子)だ。彼女は、フォークソング大会に突如乱入して「満鉄小唄」を歌うのだが、彼女は在日朝鮮人だという事がこれによって暗示される。この金田という少女は複雑なキャラクターで、かつて海の向こうでやらかした数々の狼藉を棚に上げて、いけしゃあしゃあと反戦を叫ぶ日本(眉子と取り巻きのインテリ学生たち)に対する批判、それともうひとつは、在日などと差別している連中に対し、彼らが差別している人たちこそが、日本人のルーツなのではないか、という2重の皮肉が込められているのである。
そもそも建国記念日というのは、神武天皇が即位したとされている日だが、これは神話の中の架空の人物だというのが定説になっている。この日の根拠となっている「日本書記」自体が、神話の時代が混在した歴史書であり、元を正せば幕末に討幕派の旗印として神武天皇が神格化されたものを、明治政府がそのまま「紀元節」として法制化してしまった。それが戦後にまた復活したため、左翼系インテリから歴史的根拠がない出鱈目と批判されているものである。
『日本春歌考』は、日本という国の起源は、幻想の上に成り立っているという危うさを暴き立てようとする、挑発的・・・いや挑発どころか極めてアナーキーな作品なのである。
さて役者はそろった。問題のラストシーンへなだれ込んで行くとしよう(笑)。
本作に関する色々な論評を読むと、「春歌」による国家権力や左翼インテリへの異議申し立てだという解釈ではほぼブレはなく、筆者が初見で直観的に感じた事と大筋で同じだが、これにもうひとつ、何度か前述している「空想」と「現実」の対比という要素を付け加えたい。
映画のラストは、中村たちが空想の中で眉子を犯したという大学の講堂で、中村たちが眉子を相手にそれを再現する、つまり「空想」が「現実」になるわけである。この瞬間、本作の中で対立関係だったものが一挙に反転する、とメタ解釈する事ができる。
壇上には3人の女がいる。
「朝廷の半島紀元説」を唱え、「日本人のふるさとは朝鮮です!」とアジる谷川高子(演じるは小山明子)は、狂言回し的な役割だ。
中村たちに犯され、首を絞められる藤原眉子(演じるは田島和子)は、日本という国の虚像を象徴していると解釈できる。
そして、ただ黙って立ち尽くす金田幸子(演じるは吉田日出子)は、朝鮮人であり一方で彼女こそが日本人のルーツかもしれない、という存在と捉える事ができる。
この時、講堂の壁には「従来の赤い日の丸」と「黒い日の丸」が、対立するかのように並んでいる事が見逃がせない。このシーンは、「まつろわぬ民」である中村による「偽りの女王」である眉子の殺害と、「新たな女王」幸子の戴冠を暗示している、のではないだろうか。
さらに言うと、左翼インテリである高子は「革命家」と解釈する事もできるのだが、ここでは民衆(中村)は決して革命家に煽動される事なく、自らの意思で首を絞める。つまり高子のアジテーションは、彼女の単なる自己満足的な主張として空しく響いているだけだという事も忘れてはならない。
そして最後の、眉子の謎の言葉「真実・・・ね」とは、自らがその虚偽性を認めるセリフだと解釈するとどうだろうか。
これら一連の儀式が、皇族が通う事で知られる学習院大学の講堂で行われる訳である。これはもうやんちゃとかそういうレベルでは片づける事ができない、非常に過激な風刺劇である。
とは言え、以上は筆者の思想を開陳したわけではなく、あくまで作品に対する解釈である事をエクスキューズしておきたい(笑)。
本作は、非常に短い制作期間でほとんど即興的に撮影されたため、綿密に計算された、というよりは極めて暗示的、抽象的に作られている映画でもある。
「ぼくには、自分にわからないものを受け入れる、表現することの喜びみたいなものがあった。なぜ荒木一郎が面白いかというと、解釈不可能なんだよ。自分で説明しろっていったって、できないんだもん」- 『大島渚1968』大島渚・著/青土社・刊
大島監督ご本人も、ラストシーンへ行くまでは、本当はもっと丁寧な手続きをしなければいけないけれども、それをやってられなくて、映画の時間も、現実(制作)の時間も足りない。突然そこへ飛躍してしまうのだけれど、でも唐突でなければああいう行動はとれない、といった旨の事をおっしゃっている。
それでもすごいなぁと思うのは、これほど抽象的に描かれていても、少なくとも大島渚という監督がこの映画で描こうとしている事は何なのか、それは明確に理解できるという作りになっているという点である。そこが恐るべし、と思うのだ。
【参考文献】『大島渚1968』大島渚・著、青土社・刊/『大島渚の時代』小野沢稔彦・著、毎日新聞社・刊/『大島渚と日本』四方田犬彦・著、筑摩書房・刊/『大島渚「日本春歌考」について』(ネット上のまとめサイト。資料性が素晴らしく高くて、とても参考になりました)/ほか、ネット上の映画ブログ多数
2021年5月21日に日本でレビュー済み
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黒沢監督によると歌合戦という映画の作り方があるそうだ。春歌などの歌で当時の日本の姿を浮き彫りにしている。今の映画にはないイデオロギーを感じる。
2020年8月18日に日本でレビュー済み
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説明するのが難しいけど「儀式」や「少年」と並んで好きな映画です。どうでもいいが伊丹十三がデ・ニーロ見たいな顔でカッコいい。