略歴 / Brief history
従来の名鑑などに1906年2月1日、大阪生まれとあるのは誤りである。父は坂出の旧家の出で、遊芸にこり家産を傾けて大阪に出、港区市岡にささやかな鉄工所を営んだ。右太衛門は5歳のときから先代山村若について日本舞踊を始め、その師匠のつてで6歳にして『菅原伝授手習鑑』の菅秀才で初舞台を踏む。父の鉄工所も第一次大戦の好況に恵まれ、家計にも余裕が生じたので、芸事好きの両親は右太衛門を早くから歌舞伎役者に育てることを夢みた。小学校を卒業する前後に、宙乗りやケレン物を得意とした市川右団次の門下となる。彼の弟もともに入門、兄は右一、弟は右呂子の芸名で、押し出しのよい兄と、可憐な弟が長袖をひるがえしながら、松島・八千代座などに通勤する姿が人目をひいた。その右呂子は12歳のとき脳膜炎で不幸にも失明。右一は弟の分まで舞台を励んだ。中村扇雀(現・鴈治郎)や成太郎らのちんこ芝居(青年歌舞伎)に加わり、のちの市川百々之助や、長谷川一夫、嵐寛寿郎らと大部屋で化粧前を並べたのもこのころである。この前後、市川右一の右太衛門は、それらの仲間の中でも、人気、実力とも一歩ぬきんでていたようである。『勧進帳』の弁慶のような大役を演じていたことでもそれが証せられる。25年、マキノプロでは阪妻が独立プロを興して、そのあとがまを歌舞伎の若手の中から物色していた。大阪の日活系の有力株主であり、牧野省三とも親交のあった森田佐吉(のち日活社長)から右一が推薦され、省三は監督の沼田紅緑と、京都第二京極の三友劇場に出演中の彼の下検分を行った。そのときの舞台が『勧進帳』の弁慶で、一と目で省三の気に入った。マキノでは月給500円、1年後には別に1万円の賞与を出すという好条件で入社を誘った。むかしの仲間の市川百々之助が、すでに一と足先に帝キネでチャンバラスターとして名をなしていた。舞台にもまだじゅうぶん未練があり、母も映画入りには賛成ではなかったが、右一自身が映画の新天地への誘惑に打ちかてなかった。マキノ入社は同年12月。この機会に芸名も歌舞伎の歌右衛門をきかせて大きく右太衛門と改め、早速二番館の正月作品として西条照太郎脚本「黒髪地獄」前後篇を沼田紅緑監督で撮った。続いて翌26年、省三が自ら監督した「快傑夜叉王」、日活、松竹、帝キネと競作になった前田曙山の「孔雀の光」、同じく日活、東亜と競作の吉川英治の「鳴門秘帖」などに連続主演してたちまち美剣士スターとしての名声を決定的なものにした。この時期、チャンバラ映画の流行に符節を合わせたように大衆文芸の勃興があった。『朝日』『毎日』といった有力紙がこれまでの講談にかわってこの種の大衆文芸の連載を行い、映画会社がまたそれに呼応して各社が同じ小説の映画化を競ったことが相乗効果をもたらしてスターの促成栽培に格好の基盤となった。しかも競作となるとマキノの活劇調に歩があり、右太衛門自身も、同じ役にふんした日活の谷崎十郎、河部五郎、松竹の森野五郎、帝キネの小島陽三、東亜の光岡竜三郎といった顔ぶれよりも、容姿、風格とも数段上回っていた。とくに右太衛門の立ち回りは日本舞踊できたえた型の美しさ、手数の多い剣さばきで、華麗で律動感があった。マキノではまた「新釈紫頭巾」「影法師捕物帳」(26)を寿々喜多呂九平に補筆させてリメイクし、右太衛門を阪妻の後継者として育てることに努めたこともあずかって力があった。右太衛門のマキノ在社は正味1年2カ月ほど。27年5月、彼はマキノから独立、市川右太衛門プロダクションを興す。それまでに前後篇物、連続物もそれぞれ1本に数えて19本の作品を撮った。そのうち半数以上の13本が沼田紅緑の監督であった。その沼田が同年3月、風邪が原因で36歳の若さで急逝した。右太衛門が入社いらい最も信頼し、親身に相談相手になってくれたひとの突然の死が彼の退社の一因だとされている。また1年たっても1万円のボーナスが支払われなかったことも独立の口実に使われたが、阪妻の独立後、チャンバラブームに乗っての時代劇スターのプロダクション設立は一種の流行のようになっていた。製作コストも安く、独立の機会をねらう野心的な若いスターに、一と山おこしたい独立興行者や配給業者が群らがり、外部の利権屋と結びつくことが多かった。右太衛門の独立のときも背後関係が錯雑していて、本人の記憶もあまり定かでない。安川甚之助、熊谷武ら、ひいき筋の出資があったというが、牧野の女婿である高村正次が背後で糸をひいていたふしがある。これに対してマキノ側では、新京極一帯を縄張りにしていた荒虎一家がいちゃもんをつけさせ、そのうえ国粋大衆党の笹川良一が高村の代人として強引に割りこんできた。右太衛門側は、義兄の山口天竜が交渉の矢表に立ち、大阪市九条の親分・長政がその後ろだてとなって三つどもえの争いになった。右太衛門が身を一時、阪大病院へかくす一と幕もあったくらいだ。けっきょく大阪市梅田の「きやいち」親分などが調停して収めたが、このころから役者の引き抜きには右翼ややくざが介入してくるケースが目立ちはじめた。笹川への違約金の支払いには、松竹や東京の河合映画の河合徳三郎からも金が出たといわれ、独立第1作、27年6月封切りの「浄魂」、第4作の「野獣」が河合映画の配給、第3作の「笑ふな金平」が東亜配給になるなど背後関係の複雑さをうかがわせた。右太プロは独立と同時に、大軌(現・近鉄)沿線の奈良市郊外あやめ池遊園地の一角に新ステージを建てた。これは笹川良一のあっせんによるもので、笹川は初代撮影所長にもなっている。独立1年後には松竹と配給提携を結んで、経営的にも安定した。なによりも最初から曲がりなりにも自分のスタジオを持ったことが強味となった。平均4、50名程度のスタッフも低賃金ながらよく働き、“お山の大将”(右太衛門)と“お池の芸術家たち”(製作スタッフ)の間には映画一家的な気持ちの通い合いもあり、千恵プロなどとは一味ちがった活気があった。伊藤大輔が迎えられて「一殺多生剣」(29)を、古海卓二が入社して「日光の円蔵」「戦線街」(30)を、小石栄一が「十三番目の同志」(31)をと、かなりラディカルな傾向映画がつくられたことなどにも“お池の芸術家たち”の反骨が見られる。山上伊太郎のシナリオによる「敵への道」(33)(稲葉大三郎監督)、梶原金八シナリオの「晴れる木曽路」(35)、「海内無双」(36)(いずれも滝沢英輔監督)と、このプロダクションには最後まで比較的自由な映画づくりの雰囲気が残っていた。中川信夫も「東海の顔役」(35)で、ここから監督として一本立ちしている。右太衛門の極めつきとなり、右太プロの市場価値を高めた「旗本退屈男」シリーズは29年製作のものが第1作で、戦後東映時代までに31本の多きを数えている。発声映画時代が来た。右太衛門は時代劇スターの中でトーキー役者として最初に成功した一人である。松竹の本格的時代劇トーキーの第1作「忠臣蔵」(32)では、脇坂淡路守と垣見五郎兵衛の2役、「天一坊と伊賀亮」(33)では山内伊賀亮に舞台出らしい確かな発声法で、堂々の貫禄を示した。だがいずこも同じ、小プロダクションでは新しいトーキー製作の規模についてゆけず、36年末で9年6カ月の独立プロの幕を閉じ、右太衛門は単身、新興キネマに入った。いらい、新興京都撮影所のエースとして41年まで年間5、6本のペースで、「南風薩摩歌」(37)、「長脇差団十郎」(39)、「国姓爺合戦」(40)、「大村益次郎」(41)の大作に出演した。42年1月、映画企業統制により、新興、大都、日活の製作部門を合わせた大日本映画製作株式会社(のち大映)が創立され、右太衛門も新会社へ移籍、ここに阪妻、千恵蔵、寛寿郎と4大スターが顔をそろえた。創立記念映画として4人の顔合わせによる「維新の曲」が製作されたが、スタッフはこの題名を“曲(きょく)”とはいわず、もっぱら“曲(まがり)”と呼んだ。表面はともかく、実際は4人の呼吸がなかなかそろわなかったからである。45年敗戦。戦中から戦後にかけて、時代劇と時代劇スターは軍部と占領軍からこもごも重圧を受けて、まったく息の根を止められたも同然であった。だが右太衛門は他のスターたちのように実演に走ることもなく、「お夏清十郎」「槍おどり五十三次」(46)、「宵祭八百八町」(47)、「黒雲街道」(48)、「大江戸七変化」(49)と、時代劇スターとしての正道を歩みつづけた、49年11月、日本映画界の第4系統として東京映画配給株式会社(のちの東映の母胎)が発足、右太衛門は大映との契約切れを待って、片岡千恵蔵とともに東京映画配給に作品を提供する東横映画撮影所(のち東映)へ転ずる。「難船崎の決闘」「ジルバの鉄」(50)と、新生東横のために不慣れな現代劇への出演もいとわず奮闘、またいち早く十八番物の「旗本退屈男」シリーズを「七人の花嫁」「毒殺魔殿」と復活させた。この間2年余、所長のマキノ満男(光雄)が○(マル)にTYKの東横マークをもじっって、マル止まった、弱った、困った、となかば冗談にまぎらわしながらねじり鉢巻で督戦につとめていた貧乏所帯を、千恵蔵といっしょに支えきった。51年4月、東映配給、東横、太泉の3社が合併して現在の東映がスタートし、その月の株主総会で、千恵蔵と並んで取締役に選任された。重役スターの第1号である。東映の経営状態は52年ごろから順調に軌道に乗り、54年度から新作2本立て全プロ配給を実施した。“時代劇は東映”がこの社のトレードマークであり“山の御大(オンタイ)”(千恵蔵)と“北大路の御大”(右太衛門)が、その時代劇の屋台骨を支える二本柱となった。54年度以降の東映の配収ベスト・10作品には、毎年、右太衛門の「旗本退屈男」シリーズが上位を占め、58年には映画出演300本記念映画として千恵蔵以下のオールスター・キャストによる「旗本退屈男」が製作されている。また56年の「赤穂浪士」では、はじめて大石内蔵助にふんして、映画入りいらいの念願を果たした。しかし東映では63年以降、企画が任侠路線へと切り換えられ、時代劇の製作も下火になった。右太衛門にも「忍び大名」(64)以後、映画の出演作品はない。京都の豪邸も処分して東京の現在のマンションへ移り住んだ。以後、主として舞台が中心になり、それも「旗本退屈男」一本やりである。右太衛門の早乙女主水之介は、幕ごとにカンラカラカラと高笑いとともに揚幕から花道へ現れ、あるいは逆に高笑いとともに花道を引き上げてゆく。こういう破格な演出も退屈男即右太衛門のイメージにはぴったりで、少しもおかしく見えないところが人徳である。右太衛門は芸風にもこんなふうに豪快だが、実生活でもまことにざっくばらんで、こだわりがない性格である。麻雀はやらないが、将棋、撞球と勝負事はなんでも強く、強運のひとでもある。酒席でよく黒田節を踊るが、その主人公のように酒も強い。今でも落語の柳家小さん師匠らが右太衛門を殿様に担ぎあげて、一夜ハメをはずして騒ぐ「三日月党」というファン・グループの集まりが続いているのもこのひとの人柄のよさによるものである。
映画専門家レビュー
今日は映画何の日?
NEW今日誕生日の映画人 4/23
- ジェイミー・キング(1979)
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大脱出3
シルヴェスター・スタローン主演のアクション第3弾。秘密監獄・悪魔砦から、何者かに誘拐された社長令嬢救出の依頼を受けた脱獄のプロ、レイ・ブレスリンは、仲間と共に行動を開始。ところが、レイのパートナー、アビゲイルが悪魔砦に拉致されてしまう。共演は「アベンジャーズ/エンドゲーム」のデイヴ・バウティスタ、「パシフィック・リム:アップライジング」のマックス・チャン。メガホンを取ったのは、「ボビーZ」のジョン・ハーツフェルド。 -
大脱出2
シルヴェスター・スタローン扮する脱獄のプロが難攻不落の監獄に挑むアクション第2弾。警備会社を設立し後進育成に励むブレスリンだったが、スタッフが行方不明に。コンピューター制御された監獄ハデスに囚われた仲間を救うため、自ら収監され脱獄を試みる。監督は「マローダーズ/襲撃者」のスティーヴン・C・ミラー。元WWEチャンピオンであるデイヴ・バウティスタが新たにスタローンの相棒を務め、前作に続きカーティス・“50セント”・ジャクソンが出演するほか、「イップ・マン 葉問」のホァン・シャオミン、「シン・シティ」シリーズのジェイミー・キングらが新規参戦。 - 阿部サダヲ(1970)
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MOTHER マザー(2020)
大森立嗣が、実在の殺人事件に着想を得て作り上げたドラマ。男たちとゆきずりの関係を持ち、その場しのぎの生活を送るシングルマザーの秋子。そんな母の歪んだ愛に、必死に応えようとする息子・周平。やがて身内からも絶縁された母子は、社会から孤立し……。出演は「コンフィデンスマンJP」の長澤まさみ、「彼女がその名を知らない鳥たち」の阿部サダヲ、オーディションで抜擢され、本作が映画初出演となる奥平大兼。「新聞記者」の河村光庸がプロデューサーを務める。 -
決算!忠臣蔵
大石内蔵助が残した決算書を元に、赤穂浪士の吉良邸討ち入りをお金の面から描いた山本博文の『「忠臣蔵」の決算書』を映画化。元禄14年、お家再興の望みを絶たれた赤穂藩筆頭家老・大石内蔵助は、吉良邸討ち入りを計画。だが、その予算には上限があり……。出演は「泣くな赤鬼」の堤真一、「土竜(モグラ)の唄 潜入捜査官 REIJI」の岡村隆史。監督は「忍びの国」の中村義洋。
NEW今日命日の映画人 4/23
- 大泉滉(1998)
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お早よう デジタルリマスター
“おなら遊び”が流行っていたわんぱく盛りの兄弟が、まだ珍しかったテレビ欲しさに両親と喧嘩をし、巻き起こす騒動を描いたコメディ。監督は小津安二郎。脚本は野田高梧と小津安二郎。撮影は厚田雄春。出演は、佐田啓二、久我美子、笠智衆、三宅邦子、杉村春子ほか。小津作品の撮影チーフ助手を務めた川又昂監修による、4Kスキャニングによる最新のデジタル修復を実施したHDマスター。2013年11月23日より、東京・神田 神保町シアターにて開催された「生誕110年・没後50年記念 映画監督 小津安二郎」にて上映。 -
麗猫伝説 劇場版
1983年に大林宣彦監督は、入江たか子とその娘の入江若葉を迎えて尾道で作った、化け猫映画へのオマージュ的作品。もともとテレビ用映画として作られた16ミリ作品の劇場上映。