「日本原 牛と人の大地」のストーリー

岡山県北部の山間の町、奈義町。人口6,000人ほどのこの町に、中国・四国地方で一番大きな軍事演習場である陸上自衛隊の日本原演習場がある。日露戦争後に旧陸軍が村々を強制買収して設置、占領軍に接収されたのち自衛隊に引き継がれたもので、奈義町は自衛隊との共存共栄を謳ってきた。日本原では昔から地元住民が山に入って土地を共同利用する入会(いりあい)が行なわれ、演習場内の耕作権などが防衛省から認められている。しかし今や場内で耕作しているのは、ヒデさんこと内藤秀之さんの一家だけとなった。ヒデさんは 50 年間日本原で平和を求め続け、日本原が地元民の営みが根付く重要な土地であることを訴えている。1969 年頃、危険な実弾演習に反対する農民たちの闘争の機運の高まりと学生運動の共鳴により、日本原の反基地闘争のための現地闘争本部が置かれた。岡山大学で医学を学んでいたヒデさんもこの闘いに身を投じ、農民運動の中心であった内藤太・勝野夫妻と出会う。ヒデさんは日本原で反基地闘争を続ける決断をし、大学を辞めて内藤夫妻の婿養子となり、農民となった。演習場内にはかつて二つの村があり、廃村後も農民たちは耕作地に通い、牛に草を食べさせ米を作り続けていた。それから 100 年以上経ち、代替地を与えられた農家は代々の耕作地を離れていった。いつのまにか演習場内で耕作を続けているのは内藤家だけに。かつての村の耕作地は草木が伸び、ほとんど山に還っている。ヒデさんと妻の早苗さんが自衛隊と闘いながら作り続けた『山の牛乳』、演習場内の神社で行われた春祭り、武器ではなくさつま芋を持とうという平和のメッセージを示すため毎年演習場内の畑で仲間と育てるさつま芋、日本原から自衛隊を撤退させて牛の放牧場にしないといけないという祖父・太の最期の言葉をずっと胸に秘めてきた長男の大一さん、そして日本原で行われた自衛隊と米軍との共同訓練など、内藤さん一家にカメラを向け、その生き方を記録する。