「約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯」のストーリー

東京オリンピックを控え、高度経済成長に沸く1961年。三重県名張市の山間にある18戸の葛尾という小さな村で農業に勤しむ35歳の奥西勝(仲代達矢)は、妻・千恵子と13歳の息子、5歳の娘とともに慎ましくも幸せに暮らしていた。3月28日、毎年恒例の村人たちの懇親会が行われるが、間もなくぶどう酒を口にした女性たち15人が倒れ、千恵子を含む5人が死亡。警察は殺人事件として捜査を開始する。これが“名張毒ぶどう酒事件”と呼ばれる事件の始まりだった。重要参考人として連行された奥西は、事件から6日後に逮捕。三角関係を清算するため、妻と愛人の毒殺を計画し、ぶどう酒に農薬を入れたと自白したのである。だが奥西の言葉はその後一転、自白を強要されたとして、無罪を主張する。この事件は、物的証拠がほとんどなく、奥西の自白が逮捕の決め手だった。1964年、津地方裁判所の小川潤裁判長は、自白は信憑性がなく、物的証拠も乏しいとして、無罪を言い渡す。しかし、検察側が控訴。5年後の1969年、名古屋高等裁判所で一審の無罪判決が破棄され、死刑判決が言い渡された。自白が不当な取り調べに基づくという疑いを示す証拠がないというのが判決理由だった。戦後の裁判で唯一、無罪から極刑への逆転判決。そして1972年、最高裁で死刑が確定した。その後、人権団体の川村富左吉との出会いをきっかけに弁護団が結成され、繰り返し再審請求が行なわれるが、ことごとく棄却。2005年に名古屋高等裁判所でようやく再審が決定したものの、検察の異議申し立てにより、再び棄却。事件から40年以上を経て、事件関係者や息子の無罪を信じた奥西の母・タツノ(樹木希林)は次々とこの世を去り、70歳を越えた奥西はガンにより胃の2/3を摘出。今でも続く再審請求の行方は見えず、弁護団の鈴木泉弁護士は“奥西さんに死刑宣告した50人以上もの裁判官の責任を問いたい”と語る。