「今宵ひととき」のストーリー

ヴェニスーバルコニイの上でもゴンドラの上でも、今宵ブダペストから来て独唱会を開いている歌姫ネラ・ヴァゴーの噂で持ち切りである。彼女の「トスカ」の人気に水の都は湧き返っている。が当のプリマドンナは独唱会の疲れを、ホテルに帰って憩いながら、今宵もまた哀しげである。彼女の憂鬱は彼女の灰色の周囲から生まれるのだ。老いたる下男とお手伝いと、頭の禿げた婚約者の伯爵フォン・グロナック閣下と、音楽教師のルディヒの四人、老人ばかりの単調な色彩。だから未だ年若いプリマドンナが自らのインスピレーションを見失って了ったのは少しも無理はない。プリマドンナには恋がない。恋のないところにはインスピレーションは生まれない。だが石像のような彼女の胸もときめく瞬間がある。ホテルの廊下で、劇場の内で、ふと見る風采のいい若い紳士だ。誰も彼の素性も職業も知らない。その見知れぬ男をプリマドンナは何うやら想い初めたらしい。今宵もまたホテルの廊下にある男が立っている。彼はジゴロで彼女を誘惑しようとしているのだ、と彼女の老いたる召使たちは断言する。内心では誘惑されてみたいと思いながらも、プリマドンナは芸術家らしい怜悧と我意をもって、今宵突然プダペストへ引き返すと言い出す。その夜汽車の中で、又してもジゴロだというあの紳士と顔を合わせてプリマドンナは胸が高鳴る。そしてプダペストでーインスピレーションの枯渇を感じたプリマドンナは、とうとうあの男のホテルを探し出した。彼は金持ちの老婦人と一緒に泊まっていることも分かった。それでもプリマドンナは彼を一夜訪れた。その翌日、彼女は歌った。ルディッヒも彼女のインスピレーションを明らかに感じた。同時にグロナック伯爵は婚約を破棄された。ニューヨークメトロポリタンの檜舞台がプリマドンナの憧れだった。しかし彼女はあの男のことを考えずには居られない。ジゴロにせよ若き燕にせよ、彼の甘い唇の感触を忘れ得ようか。恋と芸術と。プリマドンナは嘆息した。が彼女が恋した若紳士こそメトロポリタン歌劇場の支配人であり、老婦人はその伯母だった。プリマドンナは朗らかである。