「コーザ・ノストラ」のストーリー

1946年、アメリカ司法当局はマフィアに大きなプレゼントをした。ニューヨーク暗黒街のボス、シシリー出身のイタリア系アメリカ人チャールズ・ラッキー・ルチアーノ(ジャン・マリア・ボロンテ)を釈放、生まれた故郷イタリアに創刊したのだ。1936年、ルチアーノは殺人、売春、麻薬密売の容疑で、トーマス・E・デューイ検事の告発により50年の禁固刑に処せられながら、僅か9年間の服役の後、ニューヨーク知事に昇進していた同じデューイ自身の手で、戦時中の合衆国軍隊に対する特別功労という名目で恩赦になったわけだ。麻薬捜査局の長官アンスリンガー(エドモンド・オブライエン)と局員のチャールズ・シラグサ(チャールズ・シラグサ)は、これに反発、ルチアーノ徹底追求に乗りだした。1946年2月、釈放されてイタリアに帰ったルチアーノは、アメリカに戻った彼の部下ジェノベーゼ(チャールズ・チオッフィ)と交代するかのように、非組合組織を張りめぐらしていった。1952年、ルチアーノと同じシシリー島出身のイタリア系アメリカ人である麻薬捜査官シラグサは、アメリカの麻薬密売人がほとんどイタリアの薬品会社からヘロインを受け取っていると断定、その黒幕ルチアーノを追って証拠固めをなすべく、ジャンニーニ(ロッド・スタイガー)という男をイタリアへ放った。彼は麻薬局と犯罪組織の双方に通じたスパイだった。情婦コンテッサ(マグダ・コノプカ)を伴ったジャンニーニは、ルチアーノに接近、情報をシラグサに送ったが、逆にルチアーノはコンテッサを利用して、ジャンニーニの目的をいち早く察知し、ニューヨークへ逃れた。そして、ジャンニーニをジョオ・バラキを使って暗殺させた。自分ではいっさい手を下さずに、巨大な組織網を使って巧妙に犯罪を押し進めるルチアーノ“麻薬王”と呼びながら、国際警察はどうしても証拠を掴むことができなかった。そうした当局の焦りを尻目に、1957年10月、ルチアーノは国際的組織の大物たちを集め、マフィアの勢力範囲を拡大し、世界的な麻薬取引をすべてこの国際犯罪組織が支配することを取り決めた。一方、ニューヨークでは知事トーマス・E・デューイによって召集された査問委員会が連邦警察の職権乱用について追求、シラグサの捜査活動を告発した。シラグサはこの査問に反撥し、かつて、デューイがルチアーノに恩赦を与えたのは、ルチアーノが、デューイの大統領出馬のための選挙運動を助ける莫大な資金を援助したためと主張した。このために、シラグサはその任務のすべてを解かれてしまった。1962年1月26日、ヨーロッパ数カ国の警察の広域捜査の結果、ついにルチアーノのアパートの手入れをおこない逮捕、6時間に及ぶ訊問を叩きつけた。大小を問わず、集めた証拠を並べてルチアーノを追求したが、すべて徒労に終わった。ルチアーノがなぜひんぱんに海外に旅行するのか、そしてなぜ暗黒街のボスたちと会わなければならないのか、またそのボスたちがルチアーノと会見した後、なぜすぐにニューヨークへ飛び立つのか?このイタリア警察の必死の追求を巧みにかわしたものの、突然、ルチアーノは発作に襲われた。そして彼は釈放された。カポディチノ空港。ルチアーノは、映画企画者の友人を出迎えるために姿を現わした。そこで再びルチアーノは凄まじい発作を引き起こし、そのまま息を引き取った。こうして、すべてを闇に閉ざして、ラッキー・ルチアーノは死んでいった。だが、この変死を心臓発作という理由だけで片づけることはできない。麻薬密売が発覚しそうになったために、何者かがルチアーノを毒殺した、という説を否定する材料は何もないのだ--。

今日は映画何の日?

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